1週間の感想_20240303-20240309

文月
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ずっとせわしない一週間だった。仕事が、というのもあるが、それ以上に仕事の外のことで緊張すること、やらなければならないことが多く、自分の状態を制御できずにアワアワしていた。混乱は続いている。ずっと続くかもしれないなと思っている。もしそうなら、混乱している状態、忙しい状態、タスクが混沌としていて整理されていない状態を「普通の状態」として日々を送るべきなのかもしれない。

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わが身はつち、畑のくろつち、冬の日の茶の花のなどしたしいかなや

口にするとリズムがとてもきもちいい歌だ。つち、つち。ちゃ。したしい。口蓋音が可愛いのだろうか。

紙幅(というか枠幅)が足りなくて全然検討できずに終わったことをここで再検討したい。

「茶の花のなど」の「のなど」の使用が見慣れない。どういうことを言おうとしているのだろうか?

副助詞「など」は種々の語につく。手元の『読解のための新古典文法』(東京書籍)と『詳説古典文法』(筑摩書房)で「など」の例文として挙げているものには①名詞につく「など」②格助詞「へ」につく「など」がある。②格助詞につくものがあるというならば、この歌のように「茶の花など」と格助詞「の」についてもおかしくはない。

つくのがおかしくないということは分かった。なら、意味はどうなるんだろう?

わが身は地、畑のくろつち、冬の日の茶の花のなどしたしいかなや

上二句はいいだろう、自分がそのようであるという表現。問題は下三句である。冬の日の茶の花のなどしたしいかなや。

冬の日の茶の花 の など したしいかなや。

冬の日の茶の花などのしたしいかなや。であってくれたら話は簡単だった。など、例示は花にかかる。つまり、<茶の花や、そのほかの花や植物>身近であるという話になる。

でも実際は語順が逆である。冬の日の茶の花の など したしいかなや。

副助詞「など」が種々の語につくとはいえ、格助詞「の」だけでなにか意味を持つことがない。準体法(「…ノモノ」「…ノコト」と訳される体言の代わり)もあるが、この場合は「冬の日の茶の花のモノなどしたしい…」とはなりえない。なら、格助詞「の」の後に何か省略されていると見たい。「冬の日の茶の花の●●など、したしいなあ」ということだ。

略されているとしたならばなんだろう?

地、畑のくろつちであるわが身が身近に感じるものだ。茶の花のどんなものが地に身近であろうか?

落ちたもの…とかだろうか?

茶の花 の 地に落ちたもの などしたしいかなや。

茶の國の生まれながら茶の花の散り方を知らないのだが、ツバキのように花丸ごとぼとっと落ちるか、サザンカのように花びら一枚一枚落ちるかどちらかだろう。その、散っていく白いものが、畑のくろ地であるわが身に身近である。

という省略を考えた。

自分はこれで満足したので、ここで再考察はおしまい。

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そうじゃない可能性はいくつもあるし、あるいはじゃあどうしてそれを省略したんだという問いに答える準備がないのだけど、どうやら自分は「きれいに説明がつく」物語に出会うと満足してしまうらしい。

自分の世界ではこれで完了してしまうので、ここから出る方法は一つ、この説を誰かに話して、そのだれかから反駁をもらうことだ。満足した自分はもう新しい説を思いつくことができない。だから、再度不満足の状態に戻せばよい。

自分に独学が向かないのはこういうところかもしれないなと思う。あるいは自分の学びというのはもともとほかのだれかを必要としているのかもしれない。

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冒頭で混乱の中にあると書いた。今でも忙しいが、普段の忙しさとなんだか不快感が違うのは、これが外からもたらされた混乱だということかもしれない。自分が選んで自分が引き起こす忙しさなら受け止めて整理する準備があるのだが、ここのところのそれは外から問答無用で降ってきたものである。自己で制御が効かないのが嫌なのだろうなと思う。

ならばまあ、せめて自分で整理できるところと整理できないところの判別をして、できるところはする、できないところは祈る、とか、分けたほうが精神衛生上よかろう。ニーバーの祈り。いつでもそばに置いておきたい警句だ。