もう一回観に行って来ました。
敬称略🙇
🌏
やっぱり同じところで涙がでた。ラファウが死んでしまうところと、ヨレンタが、ドゥラカの口述を文字に起こしながらオクジーに再会するところ。
三浦透子と吹越満をつい目が追ってしまう気持ち。これが何なのかしばらく考えたい。準備の仕方は全然違う役者さんなのかもしれないと想像するけど…俳優その人の存在感や自意識がとらえどころがない感じ。そして声がいい。好きだ。
ラファウ役の俳優は、東京の時と同じ小野桜介さんでした。一番変化していてハッとさせられた。身体より大きく見えた。健やかであれ。
一人の役者が複数の役柄を演じる(吹越満、大貫勇輔、吉柳咲良)→現実的な選択肢、かつ物語の本質を伝える演出でもある。二回目で受け取れました。こういう工学的な解決法はグッとくる。
大貫勇輔は、グラス、コルベ、ダミアン…「普通の」「感じのよい」ひとたちのバリエーションよ。我々はどれにでもなり得る。
似たことで、これは1回目にもメモしたと思うけど
・側面に梯子がついた箱型のセットが動いて、隔てたり渡したり、死んだ人を隠したり繋げたりする
・木枠四つの動きと音で馬車になる
・黒子的なダンサーの動きが、人間の集団に抽象性をもたせたり、本や森を生き物に見せたりする
こういう、少ない要素が動いてつくられる、境界があいまいになる表現が自分はすごく好きなんだなと思った。
🍵〜3
東京で観たとき、処刑のシーンにNOと感じたんですが、それは二回観ても変わらなかったです。
残忍さや惨めさを人の本質として、あえて観せる演出をするときに、アーティスティックなスパイスに感じさせないのは本当に難しいよな…と思いました。処刑のシーンだけじゃなくて、一貫してそういう演出だったから(アントニがグサグサ刺されるシーンとかも)これはもう個人の感じ方の違いと思った。
全然現代劇を観たことがないからかもしれないけど、自分はどうしても引っかかってしまって。このぐらいが落とし所なのかもと割り切れませんでした。何を見せられてるんだ?と集中できなくなってしまって。
舞台は、ノヴァクで始まり、ノヴァクで終わるのですが
・最終章を完全に切るなら、ドゥラカが飛ばす伝書鳩の演出をもう少し何か出来なかったんだろうか?
・それでも、生き物としてのパワーとアートで、この形の舞台化を「実現」させた森山未來はやっぱりすごい。主役ってひょっとしたら決して美味しくはない役回りで、職人なのかもと思いました。あっぱれすぎる森山未來。
何か私らしい鬱屈した感想になってしまった。
もし読んでくれた人がいたらありがとうございます☺️🙏
追記:やっぱり「満ちてる金星」は要ると思う…!なあ、オクジーくん…🫂