自分は性別が女性です。今でこそそういう考え方があるのだと認識されるようになってきたように思いますが、高校生の頃から同性の同級生たちが言っていることが共感できませんでした。「結婚して子供を産んで幸せな家庭を築くのが夢」です。
自分は結婚にも子育てにも興味が湧くことがなく、憧れがないためそういう考えもあるんだな〜と思っていました。
30代なので結婚できなくて悔しいからそう言っているのだと言われることがありますが、単に興味がないのです。そのため誰かと付き合う際には先に「結婚願望もなければ、子供も欲しいという気持ちもないが大丈夫か」と相手に確認していました。
歳を重ねるたびに仕事でなどで関わるような人から度々結婚しないのか、子育てしないのかと聞かれ、その良さを説明されることがありましたが「そういう考えもあるのだな」と思うくらいで私がその気持ちになることはなかったのです。
そんな私ですが、子は宝って、子供のいる重要性ってこういうことなのかなと実感することがありました。
祖母は祖父が亡くなった後、祖父が建てた家から出たくないためずっと一人で暮らしていました。祖父が亡くなったのは中学生の頃でその頃初めて身近な大切な人が亡くなったこと、祖父はいわゆるGiverのタイプでものすごくたくさんの人に好かれており、周りの人の悲しい気持ちを一気にたくさん目にし、その経験から自分はおそらく死恐怖症になったように思います。それ以外にも人を殺傷できる可能性があるもの全般(刃物など)も極端に苦手で、包丁を見せる収納などを見ると気が遠くなっていきます。それくらい中学生の自分にはショッキングな出来事だったのだと思います。
祖母が一人で家に住むことになり自分にできることを考えた時に月に2通とかくらいですが手紙を書くようにしていました。ポストに自分宛の手紙が入っていると嬉しいかなと思ったからです。祖母も返事を書いてくれるので今は34歳ですが2年ほど前まで、10年強の期間祖母と文通していたのです。
コロナ騒動が落ち着き始め普通の生活に戻るのではないかという頃に祖母が一人で生活できる状態ではないことに気づきました。手紙をずっと送っていたし、コロナ期間中は2週間に一回は電話していましたが全然気づきませんでした。。
祖母の家族間(祖母・私の母・母の兄)で大揉めしたわけではないのですが、親子感だとずっと自分のイメージしていた印象に残っている親と違うことに戸惑って話がまとまらず、また祖母も自分の子供に色々言われて受け止めきれなかったりといろんな問題があり、どうするかを決めるのが大変でした。
少し脱線しますが、こういう問題に孫である立場で何か言えるのであれば孫が入った方がいいことも感じました。若干離れた、微妙な立場だからです。これは後から私の母・母の兄と奥さんに私がいたから話が整理でき早くまとまったのでよかった。と言われたことも理由のひとつにあります。孫の前でだと祖母も強く言えないのか「(私)がそう言うのであればそうしようと思う」とよく言われました。それは私の母も、母の兄もそうであまり私に強く言えないのだと思います。当然ながら自分の意見や話を聞き入れてくれた祖母・私の母・母の兄は心が広いなと思っていて感謝しています。
いつかはそういう日が来るのは理解していますが、目の前でもうすぐ亡くなってしまうのかと弱々しい感じにみえて、今までできていたことが一つ一つできなくなっていくのかというのが見えているとすごい空気感になるというか、みんなショックを受けます。周りだけではなく祖母本人もそうでした。この時人生でずっと忘れられないであろう言葉を言っていたのを覚えています。
そういう重苦しくて悲しい雰囲気を変えてくれたのは姪(姉の娘)でした。
子供ってものすごく生命力に溢れているなと。この重苦しくて悲しい雰囲気の中で輝いているように感じました。もちろん私もですが、この先老いてできないことが増えていく中で子供は逆にできることが増えていく眩しい存在に感じました。
少し前にX(Twitter)で話題のツイートに入院している人に話す話題は病状や様子はどうかより、季節の話がいいみたいなツイートを見かけました。本当にその通りで、病状や様子は良くなればいいのですが、毎日向き合っている人からするとその話題しんどいなってなるのかなと思います。
「具合はどうか」「最近はどうか」と聞くと、不安から悲しい雰囲気になってしまっていました。祖母は子供が好きなのもあり、姉もなかなか老人ホームに来れないのでそうしてくれて嬉しいと言っていたのもあるのですが姪の写真や動画を見せながら「こんなことができるようになった」「最近はこんな感じだよ」と伝えるとすごく明るくなります。
生命力のある存在、この状態だとものすごく光り輝いているなと実感しました。まさに宝です。
余談
祖母は今90代なのですが戦争に関する話をよくしてくれました。色々印象に残っているので書き残しておこうかなと思います。
祖母は軍需省というところで働いていた。ある日(確か)GHQがくるとなり職場の裏の坂を登った先にめちゃくちゃ大きい穴?があってそこにみんなで資料を持っていき燃やしたと言っていた。
Netflixドラマの京城クリーチャーの1話で持っていけない資料は全て燃やせといって燃やすシーンがあるのですが、そういう感じだと思います。
軍需省がなくなり大蔵省の会計係というところで働いていた。暇すぎたけど上司に見張られていて仕事の時間がすごい長く感じた。
仕事終わりに歳が近い兄弟と銀座の4丁目あたりの地下にあるダンスホールに行って遊んでいた。そこで自分と同じ名前の女性と仲良くなり、その人から仕事を紹介してもらい、大蔵省の会計係を辞めた。大蔵省の会計係暇すぎたと言っていた。
新しい職場の下か近くに魚を加工しているか売っているお店があった。そこのおじさんが軽口を叩いて話しかけてくるのだけど、たまに魚の捌いた捨ててしまう部位をくれた。当時は食べるものが芋しかなく、ほとんどの友達が結核にかかり栄養失調で亡くなってしまったが、自分たち家族はその魚の切れ端があったおかげで結核だったが生き残っていた。だから今でも人になるべく親切にしようとしていると言っていた。
ここ10年くらいの話だけど祖母は夏の暑い日にごみ収集に来ている人に「暑い中大変だろうな…」と思ってジュースを飲むお金を全員にあげていたみたいな話がたくさんあります。
お風呂場が外にあり、というか草むらにあるドラム缶にお湯を溜めて入っていた?とかで電車とかから見えてしまうので恥ずかしかった。お風呂に入るタイミングが難しかった。
たまに銭湯に行っていたが、一番下の妹を連れて行かなくてはいけなくて、まだ赤ちゃんくらいだったので若いお母さんに勘違いされるのが恥ずかしかった。
空襲にあった時に町内会の各家庭の貴重品を全部土に埋める当番が順番というものがあった。「当番になった時に空襲にあったら当番の人は亡くなってしまう可能性あるよね?」と聞いたら「そういう時代だったので受け入れていた」とのことでした。
空襲警報が出るとみんな身近な避難場所に行くので、家族がどこにいるのかわからず、家に帰って家族や兄弟や妹が全員いて安心したと言っていた。
空襲警報が出た時に自転車に乗って必死に避難場所に避難しようと向かっていたら浜離宮恩賜庭園(確か)で七輪とするめを持って、するめを焼いたり食べながらぼ〜っと空を見ている人がたくさんいたとのことでした。浜離宮恩賜庭園(確か)って攻撃範囲外だったかららしいです。
祖母は本を読むのが好きで、私にもよく本をくれたりおすすめしてくれました。先日SNSで本を人からもらって嬉しかったと書いたのですが、私に今まで本をくれていたのは祖母で、懐かしい気持ちになりました。
祖母だけは私に一度も「早く結婚しろ」も「子供を産め」も言わなかったです。「(私)の好きにさせてあげなよ」って守ってくれました。自分は子供が大好きなのに、ありがたいことです。
あとどのくらい時間があるのかわかりませんが、毎月会いに行くたびに自分にできることを探しているし、今後も少しでも幸せな気持ちになってもらえることは何かを考えてできるだけ叶えていきたいです。