陽太郎は口に小さくて白い輪っかを咥えていた。恐らくそれは玄界の笛なのだろう。そこからピイとかピュウという不格好な音が出てくる。まるで動物の寝息みたいだとヒュースは思った。
「うーん。ぜんぜんうまくできないぞ」
そう言った陽太郎は親指と人差し指で笛をつまみ、穴を覗くように上へ掲げた。そして躊躇なくそれを口の中に入れ、がりがりと食べてしまった。
「おい、笛を食べるな。腹を壊すぞ」
子供というのは突拍子もないことをする。ヒュースが注意しても陽太郎はどこ吹く風で咀嚼を続けている。
「口の中を怪我する」
重ねて言えば陽太郎は得意げな顔をした。
「これは食べられるふえなのです」
「そんなわけあるか」
「まあまあ。ヒュースもおひとつ」
手のひらに乗せられた白い笛は驚くほど軽い。爪で叩いてみると、確かに石や動物の骨のような硬さはない。鼻に近付けてみると甘く爽やかな香りがした。いつかのしゅわしゅわした甘い飲み物の喉越しを思い出す。
「まずは口にくわえて吹くのがさほうだ」
ヒュースは言われたとおりに笛を咥えた。
「いきをすって、はいて」
陽太郎の掛け声どおりに呼吸をする。その度に頼りない音が笛の穴から発生する。
「なかなかスジがいいな。さすがはヒュース」
当たり前だ、と言おうとしたが喋れないので鼻で笑ったら笛が小さくピィと鳴った。なんとも締まらない音である。もっとマシな音を出せないものかと悪戦苦闘しているうちに陽太郎が立ちあがった。
「ほかにもへやにかくしてるお菓子をもってくる」
きっと練習に飽きたのだろう。気付けば十分が経過していた。練習のかいあってか、笛の音はだいぶマシになった。息を吸っても吐いても音が鳴り、力強く吹けばそれなりの音が出る。ヒュースはリビングに誰もいないのを確認して、祖国の歌を粗末な笛で奏する。
ひょろひょろで音程が安定しないが、同じ旋律を幾度も繰り返すので難しくはない。久しぶりに聴く祖国の歌はまぶたの裏に懐かしい風景を映す。
早くこの足であの地に立って、主の元へ行きたい。無事でおられるだろうか。
旋律に混じって、主の歌声が響いた気がした。とめどなく思いが溢れ、胸が締め付けられた。喉が震えて、笛を吹くことができない。ヒュースは笛を口から外し、手のひらに乗せた。溶けるものでできているのか、少しべたべたする。
なぜ故郷の歌を奏してしまったのか。自分でもよくわからない。胸に渦巻く切なさや焦りをやり過ごそうと下を向くと、ドアが開く音がした。
「ヒュース、おまえだったのか」
[[rb:烏丸 > トリマル]]の声が聞こえて、肩が跳ねた。振り返れば、彼は驚いたような顔でこちらを見ている。
「懐かしいな。フエラムネか」
ドアを閉めた烏丸はヒュースの隣にやってきて、手元を覗いた。望郷の思いに浸っていたから、咄嗟のことにヒュースは声が出なかった。
「さっき吹いていたのは故郷の曲か?」
そう聞かれてぎくりとする。これだって立派な情報だ。もちろん明かすわけにはいかないし、懐かしんでいたことを知られるのも嫌だった。
「そんなこと教えるわけがないだろう」
内心の焦りを悟られないよう、フンと鼻を鳴らした。
「それはほぼ答えを言っているようなものじゃないか? それにヒュースはこっちの音楽を知らないだろ」
「カナダ人の設定に合わせて勉強した可能性だってある」
「じゃあこっちの地図を見せたらカナダの場所がわかるのか?」
ヒュースは言葉に詰まる。カナダの場所なんて全く知らないのだ。
おもしろくなくて、烏丸を睨み付けようと隣を向く。薄茶色の瞳と視線がかち合った。どうやら烏丸はずっとこちらを観察していたらしい。温度が低そうな眼差しは何を考えているかわからない。
これは尋問なのだろうか。しかし今までの言動を考えても烏丸が本国に興味があるとは思えなかった。
「なぜ、そんなに」
疑問がつい、口からこぼれた。
「いい曲だと思ったから」
思わぬ答えにヒュースは何度かまばたきをした。なぜか烏丸は口元を綻ばせる。途端に、こちらに向ける眼差しがあたたかなものに思えた。
「聞いたことがないメロディなのに、なぜか懐かしく感じた。優しくて心地好い、この曲を聴いたまま眠りたいような、そんな曲に思えた」
ヒュースが奏したのは祖国の子供なら誰でも聞いたことのある子守歌だった。ヒュース自身も何度も歌ってもらったことがある。
「そうか」
再び胸に寂寥感が迫ってきた。気取られたくなくてヒュースはうつむく。手のひらにはまだ白い笛が乗っていた。
不意に大きな手で後頭部を掴まれ、そのまま髪をかき混ぜられた。
「大丈夫だ。きっと帰れる」
抑揚のない声で烏丸が言った。
「当たり前だ」
勝ち上がって、絶対に祖国に帰る。それはヒュースにとって揺るぎない決定事項である。その未来に向かってひた走っているときは寂しさなんて感じる暇がない。それなのに今日はタイミング悪く、笛という楽器を与えられた状態でひとりになってしまった。知っている歌が祖国のものしかないのも良くなかった。
撫で続けている手を振りほどこうと頭を上げる。こちらを覗き込んできた烏丸と目が合った。思いがけない近さにヒュースは戸惑う。この顔をこんな距離で見たことはなかった。なぜだか気まずさに似たものを感じて、それ以上動けなかった。
「寂しいときは甘いものを食べるといい」
烏丸はヒュースの手のひらから笛を取り、上唇と下唇の間に押し込んできた。舌先が笛に触れる。確かに甘い。これは食べものだったのかと納得する。
ヒュースは舌で笛を絡め取り、噛み砕く。単純な甘さと爽やかな酸味が口に広がる。舌先にほんの少しだけ塩気を感じる。そう思ったとき、烏丸の眉がぴくりと動いた。それとは反対に、ずっとヒュースの後頭部を撫でていた手の動きが止まる。
もしかしたら烏丸の指を舐めてしまったかもしれない。気づいてしまえば頬や耳に熱が集まる。
さきほどまで確かにあった寂しさは曖昧に溶けてしまい、胸の内に残ったのは甘い疼きだけだった。