一虎の手のひらには百円玉が一枚乗っている。場地に百円だけ持って来いと言われて、連れてこられたのは古びた駄菓子屋だった。間口いっぱいに台があり、所狭しと駄菓子が並んでいる。その奥には小さなばあさんが座っていた。その寂れた茶色っぽい印象と原色を使った駄菓子のパッケージがケンカすることなく共存しているのが不思議だった。
「百円でも結構買えんだぜ?」
隣にいる場地が笑う。確かに値札を見れば十円や二十円の商品が数多くあるから、百円でもいくつか買えるだろう。
だけどどれを買っていいのかわからない。一虎は駄菓子を食べたことがなかった。父親は着色料やら添加物にうるさかったし、母もこっそり駄菓子を与えるような人間ではなかった。
「もしかして駄菓子食ったことねーの? お坊ちゃんだな」
「るせえな」
お坊ちゃんなんていいものではない。ただ機会を奪われていただけだ。
「じゃ、これ買ってみろよ」
押しつけられたのは有名メーカーのロゴが描かれた紫色のパッケージの菓子だった。商品名はわたパチというらしい。パチパチふわふわと書いてあるが、どんなものか想像がつかない。
「これは絶対食っといたほうがいい」
場地が自信ありげに言う。わくわくが止まらないという感じの、いつになく上機嫌な様子からすると場地はこの菓子が好きなのかもしれない。
「これ五十円もすんじゃねーか」
つまり一虎に好物のこれを買わせて、自分は他のものを買うという作戦だろうか。せこいと思ったが有名メーカーのものだし、そんなにまずいこともないだろうと一虎はわたパチをキープした。あと五十円分しかないので二十円の割に大きい麩菓子と二十円のガム、それから五円のチョコを二枚買った。消費税のことを忘れていたが、百円しか請求されなかった。場地はうまい棒を十本買っていた。
適当な公園に行き、駄菓子を広げた。パッケージが陽光に反射して眩しい。
「食ってみよーぜ」
場地は迷わずうまい棒のたこ焼き味のパッケージを開けた。一虎はなんとなくそれと形状が似ている麩菓子を食べる。一気に口内の水分が奪われた。黒糖の複雑な甘みが渇いた舌に張りついた。
「うえ! 甘! 口ん中パサパサになった」
「わたパチ食ってみろよ。糖分で唾液が出っから」
言われたとおり紫色の袋を破り、ふわふわした綿菓子をちぎって口に入れる。きっと甘さで唾液が広がって口の中が潤うはず。そう安堵したのも束の間、口の中で何かがバチンと大きく弾けた。それは小さなかけらになって四方に飛び散り、上あごや頬の内側にくっついてチリチリとした痛みを生む。それが口内のそこら中で起きた。
なんだこれ、と言おうとして口を開けたら痛みが余計に強くなった。一虎は無言で口を閉じ、手で塞ぐ。パチンパチンと口の中で小さな爆発が起きているみたいだ。初めての感覚に鼻がツンとして視界がぼやけた。
ぎゃはは、と場地が大口を開けて笑う。一虎の驚く反応が見たくて、これを買えと言ったのだとようやくわかった。むかむかと怒りがわき上がる。一虎は残りのわたパチを掴んで場地の口に押し込んだ。
「オレ、これ好きだから全然へーき」
場地は見せつけるように口を開けた。拍手みたいな音がひっきりなしに聞こえる。手を叩いてこちらを笑っているみたいで、余計に腹が立った。一虎は場地のうまい棒を一本奪ってやった。
「あ! てめえ!」
「わたパチやったんだからいいだろ!」
取り返される前に急いでうまい棒を口に押し込む。予想通り、口がからからに渇いた。めんたい味は失敗だったかもしれない。
駄菓子を供えるのはありなのか。そんなことを考えながら一虎は場地の墓前にわたパチを置いた。
またこれをオマエと食いたかったなんて言えるわけもなく、冷たい墓石を眺める。何を思えばいいのだろう。償いの言葉を口にしていいのかすらわからない。それなのにコンビニでわたパチを見つけたとき、どうしようもなく懐かしくなってしまい、ここに来てしまった。自分にとって一番楽しかったあの頃をどんなに懐かしんでも、もう帰ってこない。それを終わらせたのは紛れもなく一虎だった。
無言で数分の間、墓石と対峙する。当然のことながら無機物は何も言わない。
なあ、うまい棒にプレミアムが出たの知ってるか? 明太子食ってみたけど正直普通のめんたいのほうがうめえわ。なんか妙につまみっぽいっていうか、大人を意識してんだよな。駄菓子にそういうの求めてねえっつうの。
つらつらと心の中で話しかける。生きていれば場地だってプレミアムを食べられたし、その機会を奪ったのは自分だと考えてしまうと何も言えなくなった。
会いたいよ。
心に浮かんだ正直な思いを口に出せるわけがなかった。
会いたい。生き返ってほしい。話をしたい。一緒に笑いたい。自分で奪ったくせに返してと大騒ぎする自分に吐き気がする。地面についた手のひらが冷たい。そんなことで生きていることを実感したくない。
泣くな。そう思うのに言うことを聞かない喉が勝手にしゃくりあげて、地面の匂いが濃くなった。額が冷たい。暗い視界のなかで自分の泣き声だけが聞こえる。
「あれ、一虎くん墓の前で丸まって何してんの」
罪悪感と寂しさで、それはもうぐちゃぐちゃになって泣いている一虎の頭上から呑気な千冬の声が降ってきた。
「うわ、これなつかしー」
大泣きしている成人男性を気にも留めず、千冬は場地の墓からわたパチを取り上げる。見えていなくても千冬が作り出す音で全てがわかる。
「てめえ、それ場地の」
涙に濡れた声がかっこ悪い。顔をあげると千冬が困ったような顔をして笑っていた。
「一虎くん、鼻水やばいって」
ポケットから出したティッシュで乱暴に顔を拭かれる。まるで子供扱いだ。首を振って抵抗すると後頭部を押さえられた。子供というより目やにを拭かれる猫と同じだ。
「ねえ、これ食っていい?」
「だめ。場地のだから」
「ここお供え持って帰らないとだめなんだよ。カラスが荒らすから」
まだ流れてくる涙をぬぐいながら、千冬が言う。こうやって優しくされるたびに身の置き場がなくなる。自分だけが十五のままで時間が止まっていて、ひとつ年下の千冬はずっと大人になったみたいだ。こんなに優しくされる価値なんてないのに! と叫びたくなる。叫んだところで千冬はそんなことないよと言うに決まっているから、何も言えなくなる。
「そんな食いたいんなら食えば」
「じゃ遠慮なく」
パッケージを破った千冬はわたパチを千切って一虎の口に押し込んできた。強烈な甘さと刺激が口内を襲う。服役中は炭酸飲料すら飲んでいないし、出所後も数えるほどだ。刺激から遠ざかったまっさらな口内に爆発物みたいな食品はあまりにも辛い。痛みをどうにかやり過ごそうと口を押さえたまま黙ってうつむいていたら千冬が覗き込んできた。
「えっ、これ市販品だよね? 毒だった? 出す?」
慌てている様子にちょっとだけ溜飲が下がる。一虎は千冬の手からわたパチを取り返した。残り全てを千冬の口の中に突っ込む。
「すげえうめえ!」
満面の笑みで千冬が叫ぶ。彼の口の中から盛大な拍手みたいな音が聞こえる。あの日、場地から聞こえた音と同じだった。