自分らしく生きるだとか、個性的に生きるだとか、物心ついたころには「いい生き方」「これからの生き方」として喧伝されていた。「世界に一つだけの花」が大流行していたことだし。
「自分らしく生きること」、「個性的に生きること」、互いに同じイメージで使われることが多いフレーズ同士ではあるけれど、この2つは同じにならないように思う。それどころか、かなり違う概念だと感じる。
違う概念だと感じるのは、自分らしく生きることを、偉人の言葉を借りるなら「独立自尊」に生きることだと私が捉えていることによるだろう。他の先人の言葉を借りるなら、「俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる」こととしてもいいだろう。
要するに、独立自尊を自分らしく生きることと捉える私にしてみれば、個性がなくても自分らしく生きることは可能だという話だ。無個性の人間であっても、その意志が誰にも妨げられることなく自由に発揮されるのであれば、それは確かに自分らしく生きているはずだ。
これに対して、個性的に生きることというのは、ただ集団の平均からの乖離度を高める生き方に過ぎない。これは私の言うところでは自分らしく生きることではない。集団という自分とは違うものの存在に意志を捻じ曲げられているからだ。仮に発揮したい個性に先人がいたとして、それを避けて作った個性に生きることは、確かに個性的な生き方を高めている。けれどそれは本当に自分らしく生きているのか。
「自分らしく生きる」と「個性的に生きる」が、私には異なる響きを持っていたとして、普通そうではないだろう。その原因を考える。
私は「自分らしい」という形容詞が「個性的だ」の類語になるところに端を発するように思う。「自分らしく」という副詞は行動に対してかかる。これに対して「自分らしい」という形容詞は、行動ではなく属性への言及を印象付ける。これは「個性的だ」と同じ意味だと思っていいだろう。
こうして「自分らしく」の副詞は上で見たような絶対的意味を持つとしても、この「自分らしい」の形容詞はどうしても相対的意味に変わってしまう。誰か、もしくは集団と対照した属性の乖離度についての言及になる。
個性的に生きること自体を悪くは思わない。少なくとも悪く思うべきではない。それはそれで貴ばれるべきありかただ。ただ、独立自尊を削ってまで、立ち位置や衆目のために個性を獲得する必要があるのかどうかは、私はとても疑わしく見ている。
これは私が衆目に対する信頼を欠いているからかもしれない。名前も知らない誰彼が私をどう思ったところで、その評価は信頼性がないし、理性でそう思ったところで心の何処かではそれでも多少は真に受けるのだから、かえって危険だと思っている。
そうして自分が真に受ける裁定者を選んでいくと、気にするべき人は本当に少ない。彼らを相手に個性を発揮するのはとても簡単だから、別に取り立てて個性を獲得するうまみもない。どちらかといえば、個性よりもただ力の不足が重くのしかかる。それにしたって、ただ粛々となすべきことをなせばいい。それしかできることもない。
ただ、私のような見方をする人は今後減っていくだろう。今の若い人が独立自尊に生きるには、あまりにも彼らは互いに持ち合いすぎている。持ち合うことを強いられている。
私が若い頃には今ほど可視化された社会というのはなかった。モニターの向こうにたしかに人の気配はしても、社会と見るにはあまりにも村でありすぎた。
今の時代は寸断されて再構築された目に見える世界にそのものに、そのまま繋がることを要求してくる。これが物心ついたときから存在していることの影響度は計り知れないだろう。
私たちが未だに「オンリーワン」を呪いのように抱えていくように、彼らもまた何かに呪われて生きていくんだろう。