MOTの企画展「シナジー、創造と生成のあいだ」を先日見てきた。
美術館に行くようになったのは最近で、特に現代美術は難しいイメージがあったのだけど、いつも通り開き直ってテクスト論的読解をやって、自分なりの楽しみ方ができたと思う。
作品ももちろん面白かったし、展示の中で各作家の創造と生成のあいだについてのコメントが述べられていたのが面白かった。
このコメントに触発されて私も考えてみると、どうにもこれらにあいだというのは定まらないんじゃないか、という気がしてくる。
これらは何か一つの直線上に乗るような観念ではなく、そもそもあいだがないんじゃないか。
あらゆる出力は経験に根差した生成で、その生成がどのように創造性を伴うか、の順番じゃないか。
こう見ると、創造と生成は同じ直線上に乗らないし、あいだがないし、もっと言えば創造は最初から生成になる。
仮にこれを正しいとして、じゃあ全てが生成なら、その生成の属性としての創造性は何だろう。
随分考えたけども、創造性を経験への直交度として私には十分に思う。
経験的に最も尤もらしい結果を返すだけの生成AIは、この意味で高い創造性には至らないかもしれない。
この決め方も欠点があって、メタ的に経験を俯瞰して、そこから生成的に創造性を発揮すること、つまり「生成における創造性を生成的に実現すること」も可能で、ややこしい。
でもあらゆる出力を生成とするなら、生成に伴う創造性そのものも出力と捉える時に、それをまた生成としなければならないのは仕方ない気がする。
だから、どこまでを出力として、どこからを出力の評価とするかを切り分けないと話がめちゃくちゃになってしまう、かもしれない。
この生成と想像のミルフィーユ的な話は上手く整理できると面白そう。
とにかく、創造性は生成の属性だったり、ある意味での創造性を生成的に実現できたり、やっぱり私の感覚では創造性と生成性は同じ線に乗っていない気がするな〜、っていうお話。