YouTubeを一日3時間くらい見る日々が続いていた。ある日、YouTubeを見始めて数年経っていることにふと気付いて、登録しているチャンネルの新着動画を追うのが急に虚しくなった。その日にYouTubeのアプリをGoogle Pixelからアンインストールした。正確には、Google製スマートフォンからYouTubeのアプリをアンインストールすることはできないらしく、非表示にした。
YouTubeアプリを消して空いた時間の多くは、最近では小説を読むことに当てられている。
もともと小説を全く読まなかったわけではなく、気になる話題作があればたまにKindleで買って読んでいた。たとえば小川哲の『ゲームの王国』、新川帆立『元彼の遺言状』、佐藤究『テスカトリポカ』、劉慈欣『三体』とか。
YouTubeアプリを消してからは、現代の大衆文学だけではなく純文学や少し昔の小説にも手を広げている。たとえば高瀬隼子『うるさいこの音の全部』、市川沙央『ハンチバック』、司馬遼太郎『梟の城』、松本清張『絢爛たる流離』とか。ちなみに『梟の城』は途中で挫折して別の本に浮気している。
特に「純文学」と呼ばれるジャンルの作品には、現代文の試験問題以外で真面目に向き合ったことがなかった。しかし先日、芥川賞作家の高瀬隼子さんが出演しているオンライン配信動画のアーカイブを見る機会があった。動画の中で話す自分と年齢も近い芥川賞作家は、たとえば芥川賞受賞の取材でつい嘘をついてしまう話などをしていて、当然ながら自分と同じく人間だった。そこから純文学も読むようになった。その頃、たまたま配偶者に教えられて『響 〜小説家になる方法〜』という漫画を読んだのも、影響しているかもしれない。
僕は資本主義とベンチャースピリットに毒されているので、小説を読むことに時間を消費することで得られる「楽しい」以外のリターンについて考えてしまう。もちろん短期的なリターンはほぼ無い。しかし小説を読むことは、人間や社会が取り得る状況の多様さについて具体的に考えることにつながる。たとえば『ハンチバック』を読む前は、背骨が湾曲し肺が潰され人工呼吸器や痰の吸引器が無いと生きられない障害のある人の生活や性欲について真面目に考えたことはなかった。『三体』を読む前は、地球より圧倒的に進んだ別の惑星文明からの侵略に社会がどう向き合うことになるのか思いを馳せたことはなかった。
今ではビジネスシーンなどで安易に濫用されているが、「想像力」という言葉は、「目に見えないものを思い浮かべる能力」という意味をもつ。世界には「目に見えないもの」がたくさんある。他者の感情、マイノリティの生活実態、遠い未来の社会の在り方。それらは目には見えないが、小説に描かれた極めて具体的な状況からその一端を知ることができる。そして小説を読む時間の中でそれらとどう向き合うかを具体的に考えることができる。この「具体的に」というのがとても重要で、「障害を持つ人の気持ちを考えなさい」と抽象的に言われても考えられるわけがない。それなら『ハンチバック』を読んだ方が100倍マシである。
良いWebサービスを開発するためには、目の前にいないユーザーの体験や感情を想像しなければいけない。良い事業計画を立てるにも、この社会がどう変化していくか、その未来を想像する必要がある。
自分一人の人生では経験できないものを想像するために、最近の僕は小説を読んでいる。