祖母が亡くなった

gangun
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先日、病院で息を引き取った。

実家から都内に住んでる家に車で送ってもらう途中、運転している父に病院から入電。

状態が良くないのですぐに来てくれと。

叔父・叔母・父・母の4人で病院に集まることになり、俺は一旦道中にある適当な駅のそばで降ろしてもらい、予定通り東京に戻った。

大人数で押しかけても、今の病院では面会制限があるからだ。

おそらく俺は病室まで入れてもらえなかっただろう。母もそうだったらしい。

都内の自宅に戻り、どう過ごしたもんかとボーっとしていると母からLINE。

息を引き取ったと。

1月中頃に一度病院に行ったこともあった。その時も医者に同じようなことを言われ、万が一があるかもということで会社を抜けて病院まで行った。

今後1週間がヤマだ、とまで言われていたが、その時は持ち直した。

意識はほぼなく、こちらからの問いかけに反応することはあれど、普通の会話はもうできなかった。

一度そんな事があったので、ある程度覚悟はできていたつもりだ。

実際、母からの訃報を聞いても大きくショックだったり悲しくて仕方ないといったことにはなっていない。

漫画やYoutubeなんかを見て、面白場面では普通に笑っている。

ただ、いつもと何かが違うのは感じる。

内蔵が、ちょっと重いような。

これで両親の祖父母とも極楽浄土に行ってしまったので、その寂しさだろうか。

俺自身が子供を持つことに頓着していないとはいえ、ひ孫を見せてやれなかったことを後ろめたく思っているのだろうか。

あるいはもっと色々、言葉にできていない感情が込みあげようとしているのだろうか。

あまりにショックなことが起こると、感情が置き去りになることがある。きっとこれもそうなんだろう。

亡くなってしまうかもしれない、という事態への覚悟はできていても、亡くなってしまった後にじわじわとやってくる感情は、事前の覚悟だけではどうにもならないのかもしれない。

近いうちに葬儀と、更にもう少し先に四十九日の法要がある。

ある映画を見ていたときに、「葬儀は死んだ人のためじゃない、生きている人のためのものだ」というナレーションがあった。

それを見てしばらくは「葬式なんて催す人間の自己満足。俺が死んだときはそんなんせんでええわ」なんてヒネた考えも持っていたが

「後に残された人が、心に折り合いをつけるために必要な儀式だ」という言葉を他所で見つけたときに、なんだかストンと腑に落ちた感じがした。

自分自身でもよくわからない今の感覚と向き合って、整理して落ち着けて、また自分の人生を歩いていけるようにする。

ちゃんとやってきます。