『山月記』

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隴西の李徴博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

中学3年生の頃に読まされた文学作品、『山月記』の冒頭である。

当時は何気なく授業で暗唱していた冒頭であるが、今となってはこの作品が示す教訓を身に沁みて感じる。

ざっくりとあらすじをまとめると、以下のようになる。

秀才、李徴は若くして進士科の試験に合格した。しかし、プライドが高かった李徴は、俗世の人間との交わりを断ち、詩家としての道を進んだ。けれども、中々詩家として名を上げることはできず、何年もの歳月が経ってしまった。

妻子を養うために、官吏として勤めることにしたが、若い頃には眼中に無かったような奴が、自分よりも良い地位を得ていることにフラストレーションが溜まり、ある夜半ついに気が触れてしまい、そのまま姿を晦ました。

数年後、李徴が虎になっているのを、友人の袁傪に発見される。

そこで李徴は語った。

「自分がなぜ虎になってしまったかは分からない。しかし、思い当たらないことがないわけでもない。自分は己の矮小な自尊心と羞恥心のために、人々と切磋琢磨することを避け、積極的に師匠につこうともしなかった。自身の才能を信じ、努力を怠ったがために、己が心の獣を飼い太らせてしまったのだ。」

このことから考えられるのは、己の才能を過信し努力を怠ると、結果的には全く根拠のないプライドばかりが残り、肝心の実力、そして「才能」は雲散霧消してしまうということである。

この物語は、今の自分に最もふさわしい。

実を言えば、この物語を初めて読んだ中学3年生当時は、「やっぱり、人をとことん利用せねば。」などと考えていた。しかし、これは核心を得ていない。この物語において、最も重要なことは「自信過剰なあまりに努力を怠ってはならない」ということである。

雲行きが怪しくなったのは高校1年生の頃からだ。中学生の頃の猛勉強が功を奏して、中学3年から高校1年生の間では、学年でもトップクラスの成績を誇る生徒として誉を得ていた。今でも学年トップの地位を保持しているが、それが揺らぎ始めている。

高校生になってからは、努力を怠るようになっていった。「意味のある努力」というスローガンを大義名分にして。

数年に渡る努力によって蓄えてきた果実を、「才能」と称して食い潰す。その果実の味は、この上なく甘美である。しかし、罪の味でもある。

『山月記』を思い出して、ようやくこの事実に思い至った。自分が「才能」と思い込んでいたものは、単なる努力によって得られた実力に過ぎないのだと。

長くなってしまうので、以下の言葉で記事を締め括ろう。

努力のパラドックス、努力を「才能」と混同してはならない。

追記:あれ、ちょっと待った。よく考えたら、李徴は自身の実力から目を背けているのであって、実力を過信していたのとはまた別かも。それでも、今の自分に通ずることに変わりはないのだが。

@gatolife
プログラミングを趣味とする高校生。 自分のやりたいこと、或いは為すべきことを見失って発狂してしまわぬよう、日記をつけることにした。