韓国に住む友人からアルバイト中のコンビニの写真を送ってもらった。
日本と韓国の時差は一緒で、現在04:17。夜勤。
写真にはおにぎりや麺や弁当といった商品の他、微妙に埃の被った空調機、現金下ろし機、冷蔵庫、ハリボーグミ、日本でも見たことがある珈琲、キャラクターものの食玩やシールの欄はクレヨンしんちゃんやポケモン、デジモン、サンリオ、プイプイモルカーまで見える。レジ前に置かれたチュッパチャップスの隣にはここだけ取ってつけたような電子決済機を跨いで空の哺乳瓶が置いてある。中には小銭の影。張られたテプラには「年末、恵まれない人々に使われます^ ^」と書いてある。その下に黒人の子供の身体がムキムキになったコラ画像と共に「コンビニの助けが大きかったです!!」の文字。少し周りを気にするような、微妙に配慮のないギャグセンス。それら全体が比較的最近取り換えられたであろう蛍光灯に照らされて仄暗く存在している。
この、一枚の写真だけでも過去を含めた時代の趨勢がわかるようだった。ほどよく自由が許された環境と、食品や用具といったコーナーを区分するための自作ラミネート。日本にもある田舎のコンビニを想い起こさせる。
横にスライドさせた日常、平行した日常感がそこにある。最たる旅情とはこういうものだ。現地の人間が思い入れもなく普段から活用する道、店、見られても特に恥ずかしくない店員用の注意書き、杜撰な管理の書類、時代に合わせて取り入れられた電子決済機、寿命のある蛍光灯。私が訪れたことのないその街にも循環があり営為があり起臥がある。
去年、アメリカのロサンゼルスへ旅行に行った。有名どころの博物館やビーチや観光地に行ったが、正直、それ以上でもなく、それ以下でもなかった。強く覚えているのは誰もいないスーパーだった。古くからありそうなくすんだ床とそれを照らす蛍光灯。音楽が流れていたかどうかも忘れた。動線の真ん中に立つと自分が異形の生命になった気がする、あの異界。特に安売りもされないまま永遠に売られる衣服と玩具と工具のラックの隙間から何者かがこちらを見て良そうなあのスーパー。誰も居ない癖に監視カメラが四隅の天井に這って動かないあのスーパー。当然ながら空気感が日本と違う、けれども、日本のどこにでもありそうな酷く普遍的なあのレイアウト。すこしだけちがくて、すこしだけおなじな、ナニモノかが人間の被造物を模しただけのような違和と薄ら寒さ。自動ドアを潜って外に出るとネズミの死骸と人糞と吐瀉がそのままの形で道路舗装に固まったにおいのする空気。西海岸なのに湿潤と感じたあの瞬間に安心を覚えた。
長野の戸隠にある宿坊に泊まったことがある。山奥にある宿坊なので、夜食を調達しがてら人里に降りた。地元民が行くスーパーで買い出しをする。比較的大きなスーパーで、食品売り場以外のコーナーをふらっと一周見て回った。隅にゲームセンターがあったので中を覗く。beatmaniaIIDXがないか確認するも、ない。この、beatmaniaIIDX(愛称:弐寺)という音ゲーの筐体が、結構自分の中で日常の象徴というか、〝どこにでもあってどこにでもない〟を現すものとして認識されている。これに似た夢をたまに見る。自分はどこか知らないスーパーに居て、目的がわからない。小さい頃の自分は親の買い物が終わるのを待っているのか。その暇な時間をつぶすべくゲームセンターを探す。弐寺があるかないか。あった場合にも、大きくてメカメカしい筐体に目を輝かせて弐寺をプレイしようとするも、できない。なぜだか夢で私は弐寺という好きなゲームをプレイできたためしがない。絶対にできない。という、夢。
人間の導線や回転率を重視したゆえの普遍的なレイアウトでありながら、すべてが全くおなじではないスーパーやチェーン店は、どこか夢のような雰囲気を感じる。どこかにオリジナルがありながらそれを模倣する二次創作、デジャヴを誘発させる並行した世界、延長線にありながらそれを横にスライドしただけのような、コピペしただけのような自分にとってのオリジナルありきの違和感。〝ここではないどこかに行く〟という旅情と「海外のコンビニ」「地方のスーパー」「夢」といったものはすべて平行線上にありながら、同時にどこか親密に結びついている云々。