作品に自我を出すか?

ggmdex
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『裸のランチ』映画版をみた。主人公が出会う様々な種類のタイプライター。小説家である主人公は使い心地がそれぞれ違うタイプライターたちと出会っていき、それらと共に物語が綴られるが……ちょっとわかる。

なんつーか、おりもPCの前に姿勢を崩して座って数年前にアキバハラで買った赤軸のよくわかんねえゲーミングキーボード(USBが二つあって、片方を挿すと七色ピカピカモード使えるけど代償としてWinキーが使えなくなるマジでよくわかんねえ相互両立不可キーボード)を前にしないと本腰を入れて清書できないというのがある。ベッドに横たわり、全身が弛緩した限りなくリラックスした状態でスマホと虚ろな目と右脳有利と夢見心地《トロイメライ》で原稿を書くみたいなこともあるが、ともあれ使うデバイスによって各々適正した役割があるとは前々から思っていた。『フィネガンズ・ウェイク』を書いたジェイムズ・ジョイスは元々手書きで原稿を書いていたが、タイプライターに変えてから筆の進みが早くなり作風もまったく変わったみたいな証言が奥さんから語られたみたいな話もあった気がする(適当)。

話をややこしくすると、映画版『裸のランチ』で出てくる「タイプライター」は多分「薬物」の比喩なんだろうなという読みはおそらく順当だろう。3つ目の異形の頭からなんか粘液が垂れてるタイプライターくんかわいい。あいつを使っている時に激しい発汗が起きたり、埃が過度に気になったり、薬品ラベルを全て前向きにしないと気が済まなくなったりの几帳面になる症状が抑えきれない様相が自然に描写されてる場面が好きだった。

閑話休題(初手閑話記事)。

作者の自我を作品内に出すかどうかってむずい。

映画や小説だったりの歴史という点で、私はその方向に全く明るくない。よく○○監督の映画だから必見!みたいなかたちで注目される映画(ひいては創作物全般)があるけれど、その観点で作品をあまり見た事がない。にも関わらず、私のような作者の嗜好性を知らない人でも「これは作者の原体験だろう」というプロットが雰囲気で読み取れるといった経験が多くの人にあると思う。これは私的にかなり好みであり、寧ろこれが作品の魅力の中枢だと考えている。纏めると、「作品内に自我を出さないことは絶対に不可能」というのが先ずある。広々と、茫洋とした世の中から何を感受して、何を吐き出すかのフィルターは個々人によるものであり、原体験含め、作者の意思が介在しない限り何か『モノ』は生まれない。

問題は、この相対に位置する「自分語り」ってあると思うんです(泣)。個人の快か不快の問題でしかなく、人によってどこからが快でどこからが不快なのかは違うけど、「自分語りじゃんこれ」になった瞬間に興が醒めてしまう。同じ変数《パラメータ》のバロメータ上にいるにも関わらず振り具合で幸か不幸か印象が変わる。辛い。

ここを明瞭化して線引きをしておく必要がある。ここがまだ不明瞭な今の私は不安定だ(甘い匂いに誘われた私はカブトムシだ)。平均台の上で本人的にはバランスを取っているつもりが、思想の真横に張り付いて歩いているかもしれない。地面にめり込みながら歩いているかもしれない。そのままGlitchで飛んでくかもしれない。

先日見た『インフィニティ・プール』が自分語りじゃねえか……観客巻き込んだハイパー自己憐憫カタルシスオナニー(HJKO)じゃねえか……三島由紀夫(ハイパーカタルシス自害(HKJ))じゃねえか……って思ったのに対し、『裸のランチ』は原作含めめちゃくちゃ面白かったと感じたのは、何故だ。この違いは。(双方の監督が親子関係だということを今調べて初めて知った)どこからが「自分語り」で、どこからがそれを醸成させた「作品」になるのか。オブラートと虚構でどれほど何重に巻けばよいのか。結構曖昧な中でやってきたことを自覚した。二次創作であろうと、あなたが作っている限り、それはあなたありきの作品の態度なのだ。

純文学って、何?(綾波)純文学なんだからそりゃあ自伝調になるよな、だったら納得できる。余談だが、純文学の装幀ってムズいらしい。そうよな。掴みどころないからな。表紙は毎回迷うしストレスを感じています。良くも悪くも方向性決めるから……純文学って、何?(綾波)(二回目)

解決策のあくまで一つ:登場キャラが感情的になってしまうと本当に上手にやらないと押し付けがましく感じてしまう(作者はこの後の展開をこう持って行きたいんだなというメタ読みが発生する。人間の内面を描くのが何よりも好きな自分にとって、これを封印されるのはかなり痛い)ので、emotional《感情的》の部分を描かずしてそれを描くというのが、一つの方法であり解決策かなと思っている。次には挑戦したい。最近だと『オッペンハイマー』ではその表現がすごく上手で面白かった。本棚が揺れるとか。耳鳴りがするとか。人間が精神を蝕まれた「結果」が具象としてだけ描かれていて、観るものにその道筋を想像させた。これはパクります(満面の笑み)(堂々とした宣言)

@ggmdex
蝸牛と坩堝の違いについて、語っていきたいと思います