国際女性デーによせて

ginmokusei
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昨日3月8日は国際女性デーだった。それでふと思い出したことをひとつ。

わたしは中学に上がって、とくに希望したわけではないが厚生委員になった。

赤い羽根だったか、何かの寄付を募るということで、自分のクラスに厚生委員が募金の呼びかけを行うこと、と委員会から募金箱を渡された。

わたしは翌日の朝の会で時間をもらい、これこれこういう理由で募金を募ります、という慣れない演説を訥々と話した。それなりに内容も考えて発信したと思う。

その結果、わたしのクラスは校内でダントツ一番の募金額となった。

自分で言うのも何だが、子供の頃のわたしは小さくて可憐で人好きのする女の子だった。

たくさんの募金を寄せてもらったことにはもちろんクラスメイトに感謝だが(担任も参加してくれた)、はたしてこれが「か弱そうな女の子が一生懸命に募金の話をした」のでなかったら、こんなに集まっただろうか、という違和感が残った。

「募金は集まったんだから、別になんでもいいじゃないか」と多くの人は思うのだろう。無関係の芸能人著名人を使ったポスターの類は、そういうモデルによるイメージアップを目的にして起用されている。

集客目的で著名人をあえて起用した場合なら、それはそれでいいのかもしれない。

だが果たしてそれはわたしの「能力」たり得るだろうか。

若い頃はそれでよかったこともたまにあった。

しかしそれ以上に、優しくしてくれたから自分のことを好いていると思い込んだ人に好意を寄せられたり、おとなしい子は意見なんて持ってないと思われたり、まだ若い子だから大きなことはできないと思われたり、なにかをやろうとするたびに属性で判断する社会にぶち当たりずっと苦い思いばかりしてきた。

そこで評価されたものを、わたしは今ほとんど持っていない。

そういうことで得することはおろか、侮られることも多くなった。

いつも身綺麗でニコニコして、人の話は一生懸命聞いてうんうんうなずいて、意見は少なく、料理が得意で、子供が好きで、人のサポートが得意。

日本の女性とはいつでもこういう雑さで「定義」されている。ともすればここから外れた女性に、社会は嘲笑を浴びせることもある。

こういう強固なロールモデルが社会に浸透していて、例外を認めない、女性その人本来の性質を見定めるということをしないかぎり、この国は発展しないだろうと思う。

smash patriarchy.

いつの日か日本でも叶うことを願って。

@ginmokusei
fere libenter homines id quod volunt credunt