最初に火葬した人は、かなりの勇気が要ったと思う。
絶対すごい臭いがしたはずだし、どれくらい焼けばOKなのかわからんかっただろうし。
火葬からの一連の「流れ」は今ではお馴染みの弔い方だが、落ち着いて考えてみると結構怖い。死んだ人を焼いて、その骨を集めて、壺に入れて、家に置いてみたり、石の中にそっとしまってみたり。考えれば考えるほど、意味深すぎる。
いや、意味深でいいのか。だって人が死んでるんだもんね。これでもかってくらい、意味を持たせたくなっちゃうよね。
大学を卒業して、なんやかんやあって南米の某国で2年働いた。その間、2つの家族の下でホームステイをしていた。
2つ目の家族は夫婦と大学生の娘と小学生の娘の4人家族だったが、同じ敷地内には夫の方の両親(娘たちにとっては祖父母)と、夫の妹一家も暮らしており、三世帯住宅みたいな感じだった。
ある時、大学生のお姉ちゃんが私に「アブエリート(おじいちゃん)は具合が悪いんだ。お見舞いに行こう」と言ってきた。お見舞いに行くと言っても、階段を下りて母屋に行くだけなのだが。
アブエリートはかなり高齢だった。多分90代だったと思う。
はじめて会った時も、お姉ちゃんが「今うちにホームステイしてる子だよ。日本から来たの!」と紹介してくれたが、アブエリートは私の手をぎゅううううううっと強く握り「はるばる中国からようこそ」と優しく言って微笑んだ。
「そ・い・で・は・ぽ・ん!!(日本からです!)」と大きい声で言ったが、アブエリートは微笑むだけで、何も言わなかった。ただ、手をずっとぎゅううううううっと握られていた。
私は小3の時に行ったディズニーランドで、ミッキーマウスと交わした握手を思い出した。ミッキーの白い柔らかい手は、私の右手をぎゅううううううっと握って、「え、強っ、こわっ」と小3の私を怖がらせた。
アブエリートの手はミッキーみの欠片もなかった。古い木の太い枝みたいに茶色くてしわしわで、自分の亡くなった祖父の手に似ていた。私の祖父は亡くなる数時間前に、突然私を枕元に呼んで、なんでもいいからお前の話を聞かせてくれと言った。私が近況を話してから、しばらく部屋を離れている間に、祖父は死んでしまった。
祖父は私の手を握らなかった。もう、指の一本さえ動かす元気もなかったと思う。
だから、あの日アブエリートの手がぎゅううううううっと私の手を握っているのを見て、祖父が私を最後に呼んでくれたあの時、私が祖父の手をこんな風に握ってやればよかったと思った。
母屋で寝ているアブエリートのお見舞いに行った時、彼はほとんど話すことができない状態だった。私の顔を認めると、少しだけ微笑んで、やっぱり手を握ってくれた。最初に会った時みたいな強さは全然なかったので、代わりに私がぎゅううううううっと握った。
それから数日後、お姉ちゃんが泣きながら私の部屋へ来た。アブエリートが亡くなったという。お姉ちゃんを慰めながら、私は数日前に握った、古いしわしわの優しい手のことを思った。
それからぼんやりと、この国は土葬の国だよな、と考え始めていた。
外国でお葬式に行ったのは初めてだった。カトリック教徒の多い国なので、葬儀はやはり教会で行われた。
でも、日本とおおまかな「流れ」は同じだった。
お葬式があって、棺を墓地に運ぶ。燃やして壺に入れない分、私にはなんだか火葬よりも自然な弔い方のように思えた。
その時は土葬と言っても、土の中に埋めることはなかった。白いお墓ロッカーみたいなところに棺をにゅーっと押し入れて、入り口をセメントで埋めるのである。不思議な光景だった。きょろきょろしているのは、外国人の私だけだった。
その後は家族みんなでご飯を食べた。全然悲しそうじゃなかった。みんなめちゃくちゃ笑っていた。お葬式で号泣していたホストファザーは、めっちゃビールを飲んで、笑いまくっていた。
私が死んだときも、仲のいい人に、こんな風に笑って食事をしてほしい。変な話だな。死んだら、仲のいい人の楽しそうな姿を見ることなんてできないのに。
死んだら、それまで不安に思っていたことも、楽しみに思っていたこともすべてなくなる。もう何も、心配しなくていいし、苦しまなくていいのだ。
日本語の四字熟語に「四苦八苦」という言葉がある。すごく苦しむ、とか、すごく苦労する、という意味の慣用表現だけど、元は仏教用語である。
しかも、その苦しみの種類にそれぞれちゃんと名前がついている。
大学一年の時にこの事を知って以来、苦しい時に思い出す。これは「どの」苦しみかしら、と。
四苦八苦の「四苦」とは、簡単に言うと、苦しみのスタンダードプランである。月額490円で基本の四つの原因で苦しみ放題なのだ。
具体的には、「生苦(生まれてくる苦しみ)」「老苦(老いる苦しみ)」「病苦(病気になる苦しみ)」「死苦(死が近づく、死を恐れる苦しみ)」の四つである。
その四つにさらに四つの苦しみを加えた八苦、これがプレミアムプランである。月額890円で生きる上での苦しみを全部カバーしてくれるというお得プランだ。
「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌な相手や物と出会う苦しみ)」「求不得苦(ほしいものが手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(自分の存在を構成する肉体・感覚・意識・行動・認知による苦しみ)」の四つが加わる。
残念ながら我々は生まれながらにして、プレミアムプランに強制加入させられている。誰も拒否することはできない。
しかし、苦しみに名前がついているというのはなかなか良いものだと思う。謎の病気は怖いけど、診断名がつくとひとまず安心するし、部屋にいたすごい色の虫が図鑑に載っていれば、地球外生命体じゃないことにホッとするし、ただ自分がヤバい性格の持ち主だと思っていたら、同じ症例の人がいてそれは〇〇と呼ばれてますよと言われると、なーんだ良かったーという気持ちになる。
名前がついているだけで、謎の安心感が生まれるのだ。(この安心感にもきっと名前がついているはずだ。)
というわけで、私の先週一週間の苦しみを、四苦八苦に分類してみた。
予想通り、元々カバーしている範囲が広く、圧倒的な曖昧さを孕んでいる「五蘊盛苦」が多くなった。
グラフを見れば五蘊盛苦独走状態がはっきりとわかるだろう。日本のスマホ市場におけるiPhoneくらいの感じだ(知らんけど)。体が思い通りにならない、心が思い通りにならないなんて、日常茶飯事だからね。私たちは息をするように五蘊盛苦っているのである。
あとNHK(の委託の奴)が家に来ることほど「怨憎会苦」という言葉がしっくりくることはない。家にはマジでテレビもワンセグもない。二度と来るな。てめえは俺の怨憎会苦の根源だ。
しかし、このグラフに反映されていないのは苦しみの大きさである。
「ジョギング中に屁が止まらなくなる苦しみ」の苦しみ数値を「1」とするならば、「夜、パソコンの光が気になってなかなか眠れない」は「7」くらいある。「もぅまぢむりぃきるのゃだ」なんて計測不能だ。めちゃくちゃ苦しい。
そこで、頻度や数値にこだわらず、もっと細分化して色々な苦しみにオリジナルの名前をつけることにした。
例えば、「夫がトイレのドアを閉めないので小便の音が聞こえる」ことについては「小便音苦(他人のおしっこの音を聞かされる苦しみ)」と名付けた。実家に帰った時は、兄が同じことをするので、その場合にも使える結構汎用性の高い「苦」である。
また、「 急な買い物の際、手元にエコバッグがない」のは「進次郎苦(小泉進次郎が環境大臣をやっている国に暮らす苦しみ)」がよかろう。この苦しみは国民の努力で取り除けるぞ。立ち上がろう、人々!
こんな風に苦しんだり、苦しみについて考えたり、苦しみを分類したり、政治に怒ったりできるのは、紛れもなく生きている証である。
せっかく前半にすごく優しい気持ちで自分の祖父やアブエリートのことを思い出しながら文章を書いていたというのに、知らない間にGoogle spreadsheetで謎の分類表とグラフを作っていた。本当に自分の心身とはままならないものである。また五蘊盛苦ってしまった。
※一応申し上げておくと私は仏教の専門家でもなんでもないので、ここに書いてある四苦八苦については、ちゃんとお寺さんに聞いたり本を読んだりしてください。
(記事作成日:2021年6月9日/記事更新日:2024年10月9日)