中年の文鳥を飼う方法

私はめちゃくちゃ心が狭い。体感的には二畳半くらいだ。一応これでも広くなった方だ。二十歳のころは、多分今の半分以下だったと思う。

部屋と一緒で、心が狭いと本当に生活しづらい。周りの何もかもに憤りを感じて、すべて自分の部屋に収まるサイズに削り取ってしまおうとする。とんでもねえことだ。

ああ、もっと広い心に住みたいな。使いづらいオシャレなローテーブルとか置きたい。洗濯機で洗えない、デリケートなアルパカのラグとか敷きたい。

部屋が広いのは目で見ればわかるけれど、じゃあ、心の広さはどうやったらわかるのか。シャーディーの千年錠があれば簡単だけど、持ってないしな。

仮に、心の広さを「ゆるせること」で捉えてみたらどうか。ひらがなで書いてるのは「許す」「赦す」のどちらの意味も含むような気がしているので。

H先生の『想像メソッド』

「ゆるすこと」について考えているといつも思い出すのは、大学時代の恩師、H先生のことである。

ある日、H先生の研究室で、先生を慕う学生数人と先生と仲の良いM先生と一緒に、放課後のほほんと、おしゃべりvery timeを過ごしていた。すると突如M先生が大学関係者に関する愚痴をぶちまけ、だんだん怒りのこもったトーンになってきた。なんでああいうことをするんだ。何もわかってないんじゃないか。自分のことばっかりじゃないか。

我々学生はハラハラしながら曖昧な表情であいづちをうつしかなかった。

するとH先生が、「ねえ、もしかしたら何かこちらには見えていない事情があるのかもよ。想像してあげないと。いい風に捉えてあげるのよ。」と穏やかな口調で言った。

「想像してあげる」これは大事なキーワードかもしれない。誰かに対して、「なんでやねん」という気持ちになった時、その人の事情や気持ちを慮れば、その人の振る舞いが理解できるようになるかもしれない。しかもそれは事実である必要はない。極端なことを言えば、自分を納得させるために、話をでっちあげたっていいわけだ。

H先生の話を聞いてから、大学生の私はこの想像してゆるす方法を勝手に『想像メソッド』と名付け日常生活に取り入れるようにした。

想像メソッドの実践

翌日、5階の講義室に行こうと思ってエレベーターに乗ったら、一緒に乗ってきた人が2階のボタンを押した。私は瞬時に「階段使え!」と思ったが、「いや、もしかしたら体調が悪いのかも」と想像することで、その人を自分の中で「ゆるす」ことができた。

え、いや、そんなことで怒ってるの?そもそもこれは「ゆるす・ゆるさない」の話ではないのでは?と、すでにドン引きの方がいるのは想像に難くないが、当時の私の心の狭さは一畳くらいだったのです。こんなものなのです。自分の周りのありとあらゆるものに反射的にキレているのです。ついてきてください。

別の日、パン屋のレジで店員さんに「レシートはご利用ですか?」というトリッキーな質問をされ、いつもなら「ご利用じゃなくて『ご入用』な!!!」とシャウトしそうになっているところだったが、「もしかしてこの店員さんの地元の方言には英語の『サイレントE』みたいに、書かれているけど発音しない文字のルールがあるのではないか。語中の「い」は発音しない、その名も『サイレントい』的なルールが……」と想像して、「ありがとう。ノーご利用です。」と言って店を出た。自分が日本語を喋っているからと言って、日本語をすべて理解しているわけではない。むしろ知らない日本語の言葉やルールのほうが多いのだ。私はパン屋さんで「サイレントい」という新しい日本語の一面に出会ったのだ。もちろん、検証はしていない。想像メソッドだからだ。

また、別の日、電車を降りようとした時、同じタイミングで降りようとしたスーツの中年男性とぶつかった。私が「すみません」と言う前に、男性は「チッ」と舌打ちをした。今までの私なら、すぐに男性を線路内にドーーーン!案件だが、想像メソッドを取り入れた私は、もちろんそんなことはしない。

この男性、人間に見えるが、実はほんの一週間前までは文鳥だったのである。文鳥の「文彦(ふみひこ)」は一人暮らしの会社員の岩本(40)に飼われていた。岩本は不器用な男で、友達や恋人もおらず、話し相手は文彦だけだった。文彦には、人語がわからぬ。文彦は、ペットの文鳥である。 岩本が落ち込んでいる時は、主人を励まそうと「チュピチュピ」と鳴いて慰める、心優しい文鳥だった。 でも、もしも人語が喋れたら、いや、もしも自分が人間だったなら、岩本の親友になって、話し相手になってやれるのに。そう思うようになった。そう願い続けていたら、ある朝、なんと文彦は人間になっていた。それも岩本と同世代の中年男性になっていた。岩本は朝起きたら知らないおっさんが裸で鳥かごの前をうろついていたので、とりあえず気絶した。気絶から覚めても尚パニック状態の岩本に、文彦はなんとか自分が文鳥であることを全裸で説明した。人間になっていたので人語は使えるようになっていたが、時折「チュピ」とか「チュン」とうい小鳥っぽい音を発してしまう。だが、そのおかげで岩本は文彦が文鳥であることに、半信半疑ながらも、納得してくれた。そしてとりあえずズボンをはくように言った。岩本は文彦に一人では外に出ないように言いつけていた。文彦は外の世界のことなど全く知らないからだ。最初の6日間はおとなしく家でテレビを見ていた文彦だったが、7日目の朝、岩本が忘れていったスマホが鳴った。文彦が苦労して電話に出ると、慌てた岩本が「鞄を移し替えたせいで、大事な書類を忘れた。届けてくれないか。」と言った。文彦は岩本のためなら、と会社までの行き方を鳥頭で覚え、戸惑いながらもなんとか電車に乗ることができた。しかし、電車内は想像以上に息苦しく、何度もチュピチュピ鳴きながら耐えていた。ようやく目的の駅に着いた。やっと降りられる!そう思って扉から飛び出そうとした瞬間、隣の人間にぶつかった。文彦は驚いて思わず「チュッンッ!!」と鳴いた。

これが『side story F~小さな文彦の大冒険~』である。初めての外出、人込み、岩本に託されたミッション、文彦は小さな文鳥には抱えきれないほどのプレッシャーだらけの中、懸命に電車を降りようとしていただけである。驚いて、思わずさえずった。それだけのことだ。そんな幼気なおっさん文鳥を、誰が責められるというのだろう。

その後、乗り換えた電車内で私ははたと気が付いた。文彦、ネクタイしてた。すごいぞ、文彦。めちゃくちゃすごいぞ。人間でも手こずるのに、文鳥の文彦が岩本のためにネクタイまで…。そうだよな、会社の人に見られるかもしれないもんな。ちゃんとした服装で行かなきゃって思ったよな。そう考えると、涙が止まらなくなった。私は泣いているところを他の人に見られないように、そっと顔を窓の方に向けた。文彦は無事に岩本に会えただろうか。西宮の閑静な住宅街が窓外に流れていった……。

この一連の話を、後日H先生にしたところ「ちょっと色々と考えすぎとちがう?」と言われ、なぜかお坊さんが書いた、前向きに生きるヒント的な本を貸してくれた。すごく心配された。その前の週に、私が期末レポートの資料用にブックオフで買った鶴見済の『完全自殺マニュアル』が鞄に入っているのを見られたことも関係しているかもしれない。

いずれにせよ、私は先生のメソッドを取り入れたつもりだったが、なんかたぶん色々と間違っていたっぽい。

当時の私を振り返る

そもそも、自分が常に「ゆるす・ゆるさない」のジャッジを下す側にいると思っていることが間違いであった。(ここでやっと皆さんに追いつきました。お待たせしました。)それが私に向けられた言動ならいざ知らず、他人の行動にいちいち目くじらを立てている方がおかしいのだ。謂わば、自分の部屋の前を通り過ぎている人に向かって「私の部屋に入れてやらねーからな!」と叫んでいるようなものだったのだ。ただの変質者である。

「ひっこし!ひっこし!さっさとひっこし!しばくぞ!」

かつてリズミカルにこんなことを叫んでいてニュースになった(そして騒音傷害という罪で捕まった)人がいたが、私のメンタリティも似たようなもんだったかもしれない。

私が想像メソッドを実践した上の三つのケースを例に考えてみる。

まず一つ目のエレベーターについては、エレベーターが各階に止まるように設計されていて、施設の利用者ならば誰でも使っていいはずなので、2階のボタンを押した人には全く非はなく、この人は自分が持つ施設利用者としての権利をルールの範囲内で行使したに過ぎない。したがって、私が「ゆるす・ゆるさない」のジャッジの対象にするべき問題ではないのだ。むしろ、私は自分がなぜそんなことでイライラしたのか、と自分自身の苛立ちについて考えるべきではないだろうか。

これは私の中にいつの間にか「エレベーターを使うのは4階以上の時だけ」という自分ルールが作られており、それを他人にも当てはめようとしていたことが原因だと考えられる。自分ルールは自分だけに適用すればよい。でも、他の人にはそのルールを守る義務も義理もないのだ。エレベーターも、自分が2階に行く時は階段を使えばいいだけ。もっと言えば、そういう人を見てイライラするならどの階に行く時も階段使えばイライラしなくて済むよ、大学生の私。 

「あいつだけずるい!」みたいな気持ちになった時は、自分が作ったルールを社会規範のように思い込んでいないか考えてみる必要がある。というわけで、このケースは想像メソッドを使うまでもなく、私が他人に自分ルールの順守を求めることをやめれば済む話であった。そういうところだぞ、大学生の私!

二つ目のパン屋の「ご利用/ご入用」問題についてはどうか。

店員さんは「レシート要りますか」と聞きたかったのだから、やはり正しくは「ご入用ですか」と聞くべきだったと思うのだが、例え「ご利用ですか」と言われた(というか聞こえた)ところで一体何が問題だったのだろうか。文脈から「レシートが要るかどうか」の質問であることは明白で、その数秒のコミュニケーションに何ら支障をきたすような間違いではない。

私の中の日本語憲兵みたいなのが「乱れた日本語おおおおおお許すまじいいいいいい」みたいなことを言って暴れていただけのような気がする。言葉は知らない間に変わっていく。誤用が浸透すれば辞書に載るし、正しい意味が忘れられれば消えていく。そういうものではないか。誰も死語のために墓を建てたり弔ったりしない。言葉は静かに少しずつ変わっていくのだ。(私はひそかに「ナウい」「ヤング」を死守するために戦っているが。)

それよりもむしろ、正しさを笠に着て相手より優位に立ってやりたいという、そのマウンティング根性を何とかしたほうがいい。非常にあさましい。あさましいぞ!大学生の私よ。

さて、問題は三つ目の電車降車時の舌打ち事件である。

文彦(仮名)は明らかに私に対して敵意を向けていた。しかも私はただ電車を降りようとしただけなのに、見ようによっては向こうからぶつかってきたともとれるのに、そして私は謝ろうとしていたのに、舌打ちをかまされ、驚きのあまり謝ることもできなかった。

これはまさに「ゆるす・ゆるさない」の俎上にのせるべき問題だと思う。そして、私は見事に想像メソッドを活用して、暴力に訴えることなく、平和的に「ゆるす」ことができた(神戸線の車内でネクタイのことに気づいて号泣したことはさておき)。三つの中で最も適切に想像メソッドを活用できたケースだと言える。

想像メソッドの有効な活用法とは

しかし、一方で別の想いもある。文彦は、私が小沢仁志みたいなルックスだったら、同じことをしただろうか。私が室伏広治のような見た目でも舌打ちをしただろうか。絶対にしていない。春の野原でこっそりとかくれんぼをしている、たんぽぽの妖精のような可憐で愛くるしい見た目の私だから、文彦は反撃されないと思って舌打ちをしたのではないかという疑念は拭えない。

小沢仁志・主演『制覇17』

文彦はあれ以降も、弱そうな相手には同じように攻撃的な態度を見せているかもしれない。私がやつをゆるしたばかりに、罪を重ねている可能性がある。やはり「なにが『チッ』じゃ、おのれが気を付けんかい、このドぐされスーツじじい!」くらい言っても良かったのではないか、そんな気もしている。

ゆるすことで何となく心は穏やかでいられるが、スッキリはしない。想像メソッドはその瞬間の衝突を回避するには向いているが、カタルシスを得るには十分ではないし、根本的な解決にはつながらない。

これらのことから、想像メソッドは、①相手が自分と対等な関係で②相手の言動が明らかに自分に向けられていて③その言動によって自分が傷つけられたと感じた時には有効である。例えば友人や家族の言葉や態度に傷ついた時、怒りや悲しみを相手にぶつける前に、想像メソッドを使ってみる。そうすれば、一旦、負の感情の爆発は抑えられる。その状態であらためて自分が傷ついたことを、相手に伝えてみる。

こういう活用方法が一番よさげだ、という結論に至った。10年かかった。長かった。はやくにんげんになりたい!!

H先生がゆるさなかったこと

最後に、私が実践した3つのケースに含まれていない例についても書いておきたい。このメソッドの開発者(私が勝手に呼んでるだけ)であるH先生がぶちぎれた時のことである。

ある学生が、授業中に担当教員から容姿や仕草について、侮辱的な言葉(当時はやっていた○○系男子/女子)で呼ばれ、他の学生の前で揶揄われた。その学生はその場では笑って過ごしたが、授業中に教員に皆の前で自分の容姿や態度を馬鹿にされたことがとてもショックだったという。

学生はH先生と仲が良かったので、先生にこの話をしたらしい。

H先生はこの件に関して、それはそれは怒っていた。「それは間違いなくセクハラ。絶対にゆるされない。」と言った。

教員と学生の立場は決して対等ではない。こと日本の大学において、教員は学生よりも常に強い立場である。強い者が弱い者に言葉の暴力を向けたのだ。しかも、それは学生の性を揶揄するものだった。教員はセクハラ加害者で、学生はセクハラの被害者である。

被害者が加害者の気持ちや事情を想像する必要はまったくない。

でも、なぜか、セクハラを訴えると、必ず加害者側の事情を察したり、慮るようなことを言う人が少なくない。

「ほめ言葉のつもりで言ったんじゃない?」「あなたが笑ってたから問題ないと思われたんでしょ」「そんな見た目だからそういうこと言いたくなるよ」

私もかつて自分が性暴力の被害を受けたときに、励ましや慰めの言葉に交じって、このような加害者擁護の言葉を投げつけられたことがある。

だが、H先生は自分の同僚のセクハラ発言に毅然と「ゆるされないことである」という意思を表明した。1ミリもセクハラ教員の気持ちを想像することはしなかった。セクハラ加害者ではなく、被害学生の気持ちを、その痛みを想像した。

私は正直その「○○系男子/女子」という言葉自体にそこまで暴力性を感じなかった。自分が言われても多分、イラっとはするけど傷つきはしないと思った。でも、想像力は、自分が平気だから相手も平気だろうと考えることではなくて、傷ついた人はどんな風にその言葉を受け止めたかと考えるためのものだと思い知らされた。

これこそが、私がすっかり見落としていた想像メソッドの最も大事なポイントだったのではないかと思う。

最後に

10年経った今、岩本は文彦を電車ではなくタクシーに文彦を乗せればよかったのではないかと気づいた。

でも、それはまた、べつのおはなし……。(声:森本レオ)

(記事作成日:2020年11月29日)