物語が好きだった。アニメ、マンガ、映画。主人公がひょんなことからいろんなことに巻き込まれていく。引き出しからドラえもんが出てきたり、かめはめ波や霊丸が打てるようになったり、マスクをつけると陽気な緑の男になったり、そんなことは起こらない。
朝起きて、学校やら、仕事やら、最低限やらなければならないことだけを片付けて、人ともかかわらず、趣味に出かけることもせず、家でテレビやネットを見ている。驚くほど何も起こらず、ただただ年を取っていく。
「あれ?これもしかして何も起こらないんじゃね?」って気づいても、もう根が生えて動けない。歌人の穂村弘が『本当はちがうんだ日記』のエスプレッソのエピソードで、今は「私のリハーサル」で「まだ本番ではない」と思ってる話が出てくる。同じ本のクリスマスラテの回で、遠い未来だと思ってた「将来が今なんだ」ということに気づく。まさに、そんな感じ。このまま何も起きない。起承転結の起は物語の中にこそあっても、自分にはやってこない。少なくとも今は。とか、思ってる時点で、「待ち」なのだ。切り株に座って、ウサギが株に頭をぶつけてくれるのを待ってる故事成語のおじさんみたいに。柳の下の二匹目のどじょうを待つおじさんみたいに。ただ一匹目すらまだ、手に入れてはいない。あるいは、捕まえそこなってチャンスを逃してしまったのか。
動き出さなきゃ。でもどこへ、何を、どうするの。作文ゲームやってんじゃないのに。何もない。したいことも、行きたいとこも。できれば、何もせずのんびりしてたい。でも何も起こらないのも、何か時間を無駄にしてるような虚しさがあるし。
自己啓発本でも読めば、何か変わるのか。いやその程度では動かない、途中で読むのすらやめてしまう。内容が楽しくないから。もはや何もしないということに形状記憶されてしまってるのだ。今までいろんな誘いやアドバイスがあったのに、「でもなぁ。」と思ってスルーしてきたから今があるのだ。ねぐせをちょっと指で押さえても、またピンと戻っちゃうみたいに。癖になってんだ、何もしないで寝てるの。このままじゃ見逃しちゃうね、何か大事なものを。
同世代の友達と話題が違いすぎて焦るみたいな、ネットの書き込みを見て、そもそも友達の動向すらわからないくらい、誰とも会ってないことに気づく。もしかして、危機感が足りない?まだ自分が死なないと思ってんじゃねえか。(冨樫作品の影響が見え隠れしながら…)みたいな。あれ、みんな人生進めてんの。自分はもう次のイベントは葬式くらいしかないんだけど。あと、あるとしたら入院とか?
自分は主人公ではない。何も起こらない。地味で平凡で愚鈍だ。物語の脇役ですらない。映画ならカメラの画角にすら入ってこないだろう。
you can't get away from yourself by moving from one place to another.ってヘミングウェイの言葉がある。「自分自身から逃れることはできない、どれだけ場所をかえたところで。」くらいの意味なんかな、知らんけど。自分のことを人任せにできないんだ。人のせいにしても、文句を言っても、結局自分のこの主観から逃れることはできない。物語は外からふりかかっては来ないのだ。シンデレラみたいに期待してしまうけど。物語を見て、夢にあこがれてしまうけど、その気持ちを燃料にして、自分が動いていくしかないんだ。
まあでも、この土日。自分が何をするのかといえば、結局いつもと変わらぬ休日を過ごすのだろう。フィクションから夢を摂取しながら。物語が目指すべき目標や憧れから、ただただ気持ちを支え気分を盛り上げるための薬になってきてるのかも。