自分の書く言葉が一番自分にしっくりくる。自分の手でこねた器が、自分の手にすっぽり収まるように。自分の言葉だから、言葉になりきれなかったぼんやりとした情報も一緒に保存されているから。旅先で撮った写真をみて、その写真には写っていないエピソードも、食べたものも風景も街のにおいも蘇ってくるみたいに。たとえ他の誰にも響かなかったとしても、自分があとで読み返した時に、こころがふふふと微笑むことができるような。そういうものがあればいい。
それが時に詩であり、つぶやきであり、文章となっている。別に事実の羅列でなくていい。現実のことではないものを書いているつもりでも、そのときの自分の精神状態が否応なしに反映されていることにあとで読み返してて気づいたりするのだから。顔の整った人が鏡を見つめるように、運動の上手い人がシュートを決めるように、自分はただ文章を書いてそれを読み返す。
紙の日記でもいいじゃないか、と思うこともないではないけれど。いつ誰に読まれるともしれない自分の生活空間に置いておくのは、そわそわする。自分が死んだ後とか、部屋に自分の日記が残っているのは何かいやだ。現実の自分とは切り離された匿名のネット上の空間だからこそ、逆にあけすけに思っていることを書ける。
変なサービス精神が出て、テンションがおかしくなる。詩でもnoteでも、読む人のことを意識して、問いかけたり説明したりし出す。本来文章はそうあるべきなのかもしれないけど。っていう、こういう譲歩みたいな前置きも、読む人が自分と違う意見を持っていた場合のための保険みたいなもんなんだろう。別にいいじゃないか、好きに書けば。
静かなインターネットという場所をみつけて、より壁に向かって話しかけるように文を書けるようになってきた。ここには誰もいない。いるのかもしれないけれど、とても静かだ。現実の自分を知る人はここには誰もいない。誰にも読まれないかもしれないし、誰かが読んでいるかもしれない。そういううっすらとした緊張感が、ほどよく文字を引っ張り出してくる。長く書けば書くほど、脱落していく人も多いだろうから、この辺りは読んでないかもな。ああ、とても気楽でいい。
寝たら忘れてしまうし、時間が経てばぼんやりしてしまう。べつにくっきりきれいに残しておきたいわけじゃないけれど、言葉にして積み重ねておくことが、自分にとって一番心地よかったというだけなのだ。
死んだら、もうそれでつづきはない。それで、おしまい。別に死ぬつもりもないけれど、来世とか死後とかそういうものはなさそうだなという意味で。
好きだったけど死んでしまった人たちが、今でもどこかにぷかぷかしてて空からとかたまに微笑んでみててくれたらいいなと思うけど。トイレとか風呂とか寝てるとこは別に見なくていい。見てほしいところだけ、たまにビデオ通話で見せるくらいの感じで、見守っててほしい。