・ない話 全部幻覚
・星導の女装描写がある
・上記を小柳が綺麗だと思う描写があるがそれ以上の意味はありません
・演劇については友人に話を聞いて軽く調べた程度なので大目に見てください
夢を諦めて舞台スタッフになった小柳と芸名で生きる星導の話(仮題)
袖振り合うも他生の縁、という言葉がある。どんな小さな出来事――例えばすれ違った人間と袖が触れるのも偶然ではなく、定まっているものだという話。であるとするならば、今世で振った袖は、どこまで付きまとってくるのだろう。
ライトの熱で温まった舞台。期待というぬるい空気をはらんだ観客席。そして、一生日の当たらない舞台裏。暗くて、少し涼しくて、途方もなく高い天井と響く床。日なたの対義語として日かげがあるように、きらびやかな舞台の裏にはこうして暗がりで息をする人間がいる。小柳もその一人だった。今日も今日とて出勤して、舞台の上で命を燃やす人間を眺めて、そのまぶしさに目を焼かれて退勤する。あの養成所から逃げるように卒業した時は役者という熱から離れて生きるんだと息巻いていたはずだったのに、結局たどり着いたのは舞台だった。舞台でしか生きられないと気づいたときの絶望を、今でも覚えている。そして、その絶望の時に思い出した顔も。
いつからだろうか、ライトのあたった舞台が怖くなったのは。あかるい舞台とくらい舞台袖でくっきりと線が引かれていて、その線を越えられないと思うようになったのは、いつからだっただろうか。自分はもうあの舞台には戻れないと知っていて、自ら身を引いたことは痛いほどわかっていて、それでもまだ、身を燃やす蝶に焦がれている。
そしていま、目の前にいるのがその「身を燃やす蝶」だ。しかも一番厄介な、ライトで身を燃やすタイプの蝶。この数年、一番会いたくなかった人間。
「やっぱり小柳くんだ。久しぶり」
目の前の人間が星導だと信じたくなかった。会いたくなかった。今ここで違うと否定することは簡単なのに、どうして、養成所のことを思い出してしまうものだから。
「……久しぶり」
随分と綺麗になったな、というのは、今贈れる最大限の皮肉だった。彼の顔はきれいに化粧され、元の素材の良さを引き立てていて。暗い舞台袖でもわかるくらいに白く塗られた首筋と艶やかな着物は、彼がおんなとして舞台に立つこととを意味していた。大衆演劇、というのを知っていた。彼がその役者になっていたことを、知っていた。
「全然連絡くれなかったじゃん」
あは、と笑う星導の顔があの頃とそっくりで泣きたくなった。お前はまだ、どこまでも、舞台に立てる人間だというのか。俺はもう舞台から降りたというのに。
「お前が返さなかっただけだろ」
役者の養成所にいたころの星導は、どこか達観していたように見えた。諦観、といったほうが正しいのかもしれない。思えば彼は最初から所作がなっていた。なるほど彼が演劇の血筋であれば納得できるものだった。
「いやあ、ちょっと忙しくて」
星導は養成所を卒業した後、姿を消した。一切の連絡を絶って。宇佐美も佐伯も小柳も彼を心配した。その後を追うように逃げた小柳が言えることでもないが。
「俺今、星導じゃないからさ」
そうして告げられた名前は、星導という名とは程遠いものだった。自分たちが養成所を卒業して数か月後、鳴り物入りでデビューした役者の名だった。
「らしいな、こんな辺鄙なところまで巡業ご苦労なこった」
小柳がこの劇場を選んだ理由は単純で、ここならあの頃の誰にも会わずに過ごせると考えたからだった。新幹線が到着する駅から電車で30分。駅から歩いて15分。小さな地方都市のホールになんて、誰も来ないだろうと高をくくっていたのだ。もちろん、舞台の世界からすっぱり足を洗えばよかったことは知っている。そのうえで小柳がこの劇場で働いている理由は単純明快だった。
離れられなかったのだ。舞台から。
舞台というものに触れた瞬間から、きっとこうなることが決まっていたのだ、と思う。確かにそれに人生を狂わされている自覚があるから。たった数秒に一年を賭けられる人間がいると知ってしまって、そして少しだけ、自分もその夢を追い掛けたものだから、結局は戻ってきてしまった。蜃気楼のような蜘蛛の糸に縋って縋って、それで息をしているのだ。
「まあ、巡業だしね。そりゃ来るよ。まさか小柳くんがいるとは思わなかったけど。……ねえ、なんでいなくなったの」
お前が先にいなくなったくせに、とは、言えなかった。星導がいなくなったとき、一番に連絡したのはたしかに小柳だった。けれど、星導の連絡先を全て捨てたのもまた、小柳だった。
「俺は小柳くんがずっと羨ましかったんだよ」
何がだよ。養成所のときから褒められるのはお前だったし、比べられるのは俺で、ずっとお前は俺の先をいっていた。何を満たしても、どれだけ努力しても、お前が上にいた。上を見上げ続けた先にいたお前の顔が、いつからか見られなくなった。星導に負けていることを原動力に努力を重ねても、天性のものにはかなわなくて、自分が凡人であることを知った。全部全部お前が上なくせに。お前は今からきらびやかな舞台に立って、歓声を浴びるんだろう。
――ああ、だから、お前に会いたくなかった。今でも光に当たるのはお前で、いつだってその陰にいるのが俺だった。
星導の隣にいてずっと黙っていた役者が、彼の背を押した。
「ほら、もうすぐ出番だから。喋ってないで行くよ、星導」
じゃあ、と星導は舞台の方を向いた。あかるい舞台とくらい舞台袖でくっきりと引かれている線を、小柳がもう跨げないと思っているそれを、彼はいともたやすく踏み越えた。