先日のNHK俳句に、ゲストとして山崎ナオコーラさんが出演された。
わたしは、特に二十代の頃、ナオコーラさんの小説やエッセイのファンだったので楽しみに視聴した。
ナオコーラさんは、著書の著者紹介のコーナーに、「誰にでもわかる言葉で誰にも書けない文章を書きたい」と記載していて、わたしも俳句を作るときに同じことを思っているような気がする。
俳句で使われる「言葉」はもうすでに誰かが生み出したもので、それをああでもない、こうでもないと弄りまわして句を作る。
俳句を作るひとのなかには、前衛的というか、新しい言葉の在り方みたいなものを模索しているひとびともいて、だけどわたしはそうではないと自覚している。
ただ目の前を過ぎていった景色を切り取りたいだけ。
ただここにある感情にかたちを与えたいだけ。
わたしというフィルターをとおして世界を切り取りたい、輪郭に触れたい。
そしてそれを誰かにわかってもらいたい。伝えたい。
誰にでもわかる「言語」で世界を切り取ろうとしているのは、誰かにわかってほしいからなんだと思っている。
そうでなければ、自分専用の言葉を発明すればいい。
「誰にでもわかる言葉で誰にも書けない」句が作れたとき、そこにわたしがいるのだと思う。そしてその句が誰かに届いたとき、わたしという存在はほんのすこし肯定される。