もう1ヶ月ほど前のことになるけれど、隣の席のクラスメイト、今年度知り合ったばかりの人に、「性格が悪いね」と言われた。
世界史の授業で、「不幸とは何か」を話し合うグループワークでのことだった。不幸とは何か、を高校生に話し合わせる授業もかなり攻めていると思う。
隣の席の人はとても能天気な人。いつも鼻歌を歌っている、忘れ物、遅刻、無断欠席常習犯の人。嫌いでも好きでもないが、正直授業中の鼻歌はやめてほしい。
「不幸とは何か」と言う問いに対し、その人は「不幸だと思ったことがないから分からない」と言った。毎日ご飯が美味しくて、学校が楽しくて、部活が楽しくて、何が不幸なのだ、と。珍しいね、すごいね、と返すほかなかった。
次は私が話す番だった。私は、「周りと比べて環境や能力が劣ってると感じたとき」と答えた。私が直近でそのような場面に置かれて「不幸かもしれない」と思ったからだ。自分の家と能力を他人と比べて、その差異に気づいて、羨ましくなった。それだけのことだった。
私が答えたあと、間髪入れず、隣の席の人は「え?性格悪いね」と言った。乾いた笑いとともに。何も声が出なかった。辱められた、と思った。性格が悪いという事実が、嘘でも真でも、そうして評されたことに深く悔しさを覚えた。
いやあなたが珍しいだけだよ。誰だって他人が気になるでしょ。他人より劣ってたら嫌でしょ。どうにもならない原因でなら尚更。それを不幸と呼んで何が悪いの。
反論を飲み込んで「あはは、そうかもしれないね」と返した。うまく笑えたと思う。こういうときに笑うのは苦手じゃない。
あなたが羨ましいよ。だって昔の私だってそうだった。ご飯が美味しくて、遊ぶのが楽しくて、テレビだって面白くて。羨ましいよ。地獄に落ちろと思った。不幸を思い知ればいいと思った。どうにもならないことで悩んで苦しんで眠れなくなって虚しさで死にたくなればいい、そうでなければ私が
とまで考えたところで、彼の言っていたことは的を得ていたと感じた。確かに私は性格が悪かった。多分生まれたときからずっと。
そうして「性格が悪い」という事実を抱えて1ヶ月が経った。初めての席替えは来週の中間テストの終わったあとだから、彼はまだ隣りにいる。「性格が悪い」は案外免罪符になり得るものなんだなと気付いた。便利。こうして一方通行の殺意を抱えていたとしても、悩む必要ないからね。だって性格が悪いんだから、しょうがないね。