朝9時起床。晴れ。仕事(といっても、バイト)が変わり、生活も一変した。 昼前に出社、18時過ぎに退社。未だに慣れず、要領も今ひとつ掴み切れていない。もう少し頑張る。
週の最終出勤日には、神保町でゆっくりすることが恒例になった。 東京堂で千葉雅也「勉強の哲学」を購入。ラドリオで、ピザ、カフェオレ、チーズケーキ。 「勉強の哲学」は、タイトルからは想像できなかったが、普段自分が考えていることにヒントを与えてくれるような内容が多くて存外面白く、中盤少し手前まで読み進めた。 自分には難しくて理解が追いつかないが、勉強というのは、自己破壊であり、これを通じて如何に自由になるかというのを説こうとしている。これをよりよく理解する方法として、同じような性質を持つ「言語」を哲学的に考察するという論の運び。 自分というのは他者(ここでは、自分以外のあらゆるものを指す)に依存している。他者という環境に依存し、その環境ごとの無意識的なノリ(その場で求められる一般的な行い)に絡め取られていることが往々にある。これに対し、俯瞰して自覚し、それを脱却できるか、もしくはねじれ?を起こせるか、ということらしい。言語においても同じ様な性質がある。言語というものに本当の意味があるわけではなく、意味は、その場その場の環境(=ノリ)に依存している。このノリを脱却するために、ツッコミ=アイロニー、ボケ=ユーモアという方法で”浮いて”いこうとする、、、
こうして言語について考えてみるにつれ、あることをまた思い出した。腹立たしく、悶々とした気持ちにさせる意見で、そのことを思い出しては、その人の瑕疵を指摘してやりたい気持ちになっている。
その意見とは「禁酒を宣言してそれを達成しているのは稀に見ず、意思が弱くて言葉に失礼かつ無粋であるから、達成するまで何も言わない方がよいのでは」というもの。自分に向けられたものでもなく、言っていることも素直に受け止めれば納得できるものかもしれないが、これに自分は深く傷ついたし、意思が弱い人間は、言葉にすることも禁じられるのか(そんな権利が誰にある?)と腸が煮え繰り返る気持ちになった。
世の中には、自分を制御することが難しい人も多いのでは、と思う。何かをやめたい、やめなければいけないのは自分でもわかっている。でも、辞められなかった。またいつもと同じだった。それに傷ついて、でもまた前を向いて、時にはそれを宣言して、始めてみる。なぜそれがダメなんだろう? このサイクルに入っていることに意識的であれ、無意識的であれ、この様な苦闘をしている人々に対して、他人がとやかく言える資格はあるのか。
しかし、言葉に失礼?どういう意味か皆目検討つかないし、「こういった背景があるのではないか?」「このことを口にする必要があるのか?」などと思慮を巡らせることができずして、どうして言葉の大切さを説けるんだろう。意見としては一般的に、理解できるものなんだろう。宣言をして失敗し、ヘラヘラしているのを見て苛立ったりする気持ちもあるのだろう。 ただ、言葉を大切にしているとか、そういったことを言っていのける人間から、あの様な意見が出るのは、本当に腹立たしかった。
高校生の頃、部員と顧問の間に挟まれ、しばらく学校に行けなくなったことがある。外に出ると吐き気がするし、緊張する。数週間休んだ。朝に支度をして、玄関を出て、吐く。家に戻って休みの連絡をする。横になって落ち着いて、夕方、「明日こそは行く」と母に伝える。次の日も同じ事をする。 自分がこの時、SNS等「明日こそは学校に行く」で宣言をしていたら、それは「言葉に失礼」だったのだろうか。