言葉のシャワーを浴びる時間

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平凡社発行の『どんな絵本を読んできた?』を読んだ。「この世界の片隅で」のこうの史代さんが描かれた挿絵に惹かれて手にとった。

本にまつわる人たちが紹介するそれぞれの1冊。意外にも結構な割合で「幼い頃に読んだ記憶がない」というニュアンスの言葉が目立った。時代的なものもあるかもしれないけれど。どれも、何かしら思い出や印象について添えていたけど、なかには、「どんな絵本を読んできた?」という質問自体に許せなさを覚えながら、「どの本も通ってきてない」と回答されてるものもあって、大胆だなぁと思った。事情はまさしく人それぞれだし、それぞれの何かを味わえるのも醍醐味である。

私の場合物心つく頃には、本はすでに身近な存在だった。祖母も母も大変な読書好きで、特に祖母の鞄にはいつもミステリーやサスペンスの小説があり、孫守りの合間に気がつくと読んでいた。母の読書する姿はあんまり印象に残っていないけど、母の青春時代のものらしき色褪せた少女雑誌の束や、全巻揃った詩集や漫画、年々増える文庫本の様子をみるにつけ、「蛙の子は蛙だなぁ」と子どもながらに思ったものだ。かくいう自分もその血をまっすぐ受け継ぎ、血は争えないなぁと思っていたりする。ちなみに、3つ上の姉は活字は全く受けつけないが、漫画好きがこうじて絵の投稿をしていたぐらいなので、これまた血かもしれない。

そんな環境だったから、年相応のものより上の世代の本に触れることが多かったけど、小学生くらいまでは、年相応に読んでいた気がする。『どんな絵本を読んできた?』に準えて、自分なりの絵本を1冊を挙げるとしたら、長谷川摂子さん作/ふりや ななさん画の『めっきらもっきら どおん どん』だ。

詳細までは覚えてないけれど、とにかく色鉛筆(たぶん)で描かれた柔らかく繊細なタッチの画と、話に出てくる言葉の感じがとても気に入ったのを覚えている。なにせタイトルが「めっきらもっきら どおん どん」だ。主人公の少年と友だちになるキャラクターたちも、「もんもんびゃっこ」「しっかかもっかか」「おたからまんちん」と、分かるような分からないようなネーミング。だけどこの得体のしれなさが物語に少しの不気味さを加えているし、楽しいだけじゃない要素を演出している。読んでもらった記憶も、自分で読んだ記憶もどちらも同じくらいあるから、きっと長く愛用していたんだと思う。今じゃもう、実家にも手元にも無いけれど。

ちなみに、初めてつよく共感した(と記憶している)本は、小泉𠮷宏さん作の『コブタの気持ちもわかってよ』。手垢まみれでくすんだ色になってもずっと私の手元にある。素朴という言葉がぴったりな挿絵に、自分のなかのやりきれない想いや違和感、出し損ねた感情を認めてくれる文が書かれているこの本を、ことあるごとに思い返しては読んでいる。

小学生に上がってからは、母の趣味と図書館で自分で選ぶもので好みが固まっていった。斎藤洋さんの『ルドルフ』シリーズや『ひとりでいらっしゃい』、歴史上の偉人の学習まんがシリーズ(国内外)、杉山亮さんの『名探偵』シリーズ、寺村輝雄さんの『こまったさん』シリーズ、小学舘発行の『ミッケ』シリーズなどなど。ミッケに関して言えば、訳が糸井重里さんだったことに最近気づいて、「この頃から糸井さんびいきだったのか私は!」と驚いた次第。

絵本でも、漫画でも、小説でも、図鑑でも、本は、いつも自分のそばにあった。教室で独りだったときも、誰かともっと親しくなりたかったときも、自分を奮い起たせたかったときも、どんなときも、力を貸してくれる師であり友であった。それは変わらないままだけど、それを享受できる環境がどれほど恵まれていることか、いますごく噛み締めている。本を通して言葉のシャワーを浴びることで、心を洗い流す。養分を与える。これが自分には寝食と同じくらい大事で、そのことを忘れて離れてしまったとき、自分がどうなるかを知ってしまった。なにがなんでも、本を読む時間を私は日常に据えておきたいと思う。

@guchokipa
日々ぽつぽつと浮かんでは消える想いや考えを綴りとどめておく。