ついさっき、以前仕事でお世話になった方が亡くなったと連絡をいただいた。お葬式に行った方たちで、私に伝えられてなかったと話が挙がり、気にしてくれた方が「夜分だけど…」と電話をくれた。
その方とはもう随分長くお会いできてなくて、昨年あった大きなイベントのときも、私は別件を選んだので、会場にたどり着いたけれど最終的に間に合わなかった。そんなだから、先方が私を覚えていらっしゃったかは正直定かではない。けれど、お互いにとって、とても印象的な出逢い方をしたのは間違いないと思う。
その方は、まちの、歴史的にも文化的にも重要なトピックに関わる方で、地域では知る人ぞ知るという感じだった。そしてその歴史的にも文化的にも重要なトピックと、私の名前には、ささやかな繋がりがある。
数年前初めてお会いしたとき、最初はカウンター越しに名刺を交換をしただけで、簡単に挨拶をしたら用件を終えて帰って行かれた。と、思ったら数分後に明るい表情で戻ってこられた。私が駆け寄ると、その方は私に、「あなたは◯◯さん(私の名前)というんですね!初めてこのお名前の方と出逢いました。漢字は違いますが同じ◯◯で、ご縁を感じますね。」と、とても朗らかに嬉しそうに声をかけてくださった。その優しい笑顔が印象的で、今も鮮明に思い出せるくらいだ。その後も数回仕事でお会いしたけれど、同じ市内で過ごしていても仕事が変われば機会はなかなか無いもので、結局そのままになっていた。そんな方たちが、私の中には一定数いる。そして大半は70歳を越えたご高齢の方だ。
歳を重ねれば、もちろん老いるし死にも近づく。それはもう自然の摂理で変えがたい事実。だから悔いなく生きようとか、人との繋がりを大事にしようとか、そんな話もあるにはあるけど、今はその話は置いとこう。今回の出来事で私が思ったのは、「忘れられないことが想いの輪を広げる」ということだ。
私を思い出して連絡してきてくれた人もそうだし、私自身もその方に対して忘れられない思い出がある。私も私の周りも、たとえ物理的な距離があっても、忘れられない・忘れなければまた繋がれるし、今回に関しては、悼む(故人を想う)気持ちの輪は広がっていった。本人との関与度に差はあれど、想う気持ちの有無自体に差はない。
人は3回死ぬときがあると何かの本で読んだ。その最後の1つが「人から忘れられたとき」だった。生きてる間も、亡くなってからも、「忘れられない」ことに苦しむことは数え切れないほどある。一方で、同じくらい「忘れられない」ということには意味があるとも思う。誰かとの繋がりや関係性は、お互いの中のそういう気持ちに支えられてできているのかもしれない。
ご冥福をお祈りします。出逢いと、そして優しい笑顔をありがとうございました。
合掌