山手線内回り・外回り

gupipo
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都会にくると意識的に自己を引き詰めている自分に気づく。言い方によっては適応とも言えるかもしれない。しかし、その適応は地元に帰ると全く薄れてしまうのだ。

しばらく地元(地方)でのんびりやっていたら、都会(首都圏)の人間の多さに新鮮に衝撃を受けるし、他者への配慮の仕方として、エスカレーターは皆、左側にとどまるしだからといって右側では時間を惜しむサラリーマンが当たり前のように他者の先を急ぐ。それだけでなく、私の地元は、都会のそれ(電車)とは様子が似てもにつかないもので快速も各駅も区別もないし、ワンマン運転だからドアの横に手動ボタンがあるし、車内ではだれも鞄を前に背負って自分のスペースをいかに狭く演出しようとはしない。それが、当たり前なのだ。

当たり前ってなんだ?って言うありふれた問いを今更論点に上げたいわけではないけれど一個人の中でも当たり前がその場その時で変容(イメージとしてはスポンジのように凹んだり元に戻ったりして形を変えている)していることに新鮮な驚きをその都度感じている己の感性にありがとう。

やっぱり?それは適応とも変容とも違う気がしている。強いて言えば、可塑性か?だって一度形を変えてしまったからといってもう二度と元には戻らないものではないのだから。もっと近しい言葉を紡ぎたい。