一人のそこで被災した人間として、覚えているうちに思ったことを残しておこうと思ってこの記事を書く。
ちなみに17年前にも能登半島地震は起こっていて、両方とも「既に能登半島にある地元には暮らしていないのに、たまたま帰省していて被災した」という立ち位置なのを前置きとして書いておく。
1回目は2007年。自分は当時石川高専の寮で生活していたけど、地震の日は春休みで実家のある穴水町に帰省して被災した。自分の当時の実家は大丈夫だったが、周りの家は全壊しているくらいの状況であった。ただこの時は水道も電気もすぐに復旧したため、義父だった人が怪我したくらいで済んだ。同じ町内にある祖父母の家は半壊していたので、建て直すことになった。
そして今回の2回目。輪島市にある義実家に帰省していた。義実家で元旦にやる家業の仕事を終えて、私は大晦日から風邪で寝込んでいた夫を看病しつつ昼寝をしていた。1度目の揺れは「また大きい地震かあ、嫌だなあ」くらいだったが、その後の本震の震度6強は正直死を覚悟した。揺れがおさまった後に、義兄が「おーい!大丈夫か!!!」と叫ぶのを聞き、部屋の扉を開けると壁材が完全に崩れて通れなくなっていた。よくよく思い返すと別にそれ以外のルートからも玄関には行けたのだが、この時は混乱していたので、その壁材を蹴り飛ばして床に転がし、通れるようにした。その後、スリッパを持ってきて、隣の部屋にいた義母・近所のお姉様と客まで寝ていた夫に渡して、急いで玄関に移動した。
外は「家屋」と呼ばれる建物がほとんど潰れている状態で、正直ショッキングだった。混乱する人もいれば、泣いている人もいた。ただ、大津波警報が出ており一刻を争う状況であったため、近所の人たちとも合流し、みんなで高台にある公園経由で自衛隊の駐屯基地に避難した。
そこで毛布をもらい、2時間ほど滞在していたのだが、日が落ちてきてだんだんと寒くなり、夫が凍死しそうになっていたので状況を確認して、家に戻った。幸いなことに義実家は一部の部屋が潰れたりしていたものの、家全体は無事だったので、そこからは自宅避難していた。
自分たちは義弟夫婦と1/2の夕方に金沢へ行き、そこから1/3に東京へ帰ってこれたが、正直義理の家族を残して帰るのは相当メンタル的にきつかった(とはいえ、いても何もできないどころか食べ物や水を減らすだけなので、早く帰るべきだと思って帰った)。あとは自分の祖父母が元旦には連絡が取れていたらしいが、それ以降音信不通なのは気がかりだったりする。
ただ、義家族も幸いなことに誰も怪我しなかったこと、また地盤が隆起したおかげで津波が来なかった(と思う。義実家は海抜5mくらいのところなので、5mの津波が来ていたら被害を受けていた可能性が高い)という状況なので「運がいい」としか言えないなと思う。ただ同時に亡くなった方に対して「運が悪かった」とは絶対に言いたくないなと思う。こんな理不尽なことがあってたまるか、と思っているので。
自分は今回「日常とは薄氷の上に成り立っていて、簡単に壊れてしまう脆いものなんだ」というのを改めて感じた。その上で、「日々感じていることは今しか伝えられないので、ちゃんと伝えないと行けないんだな」とも思った。
もし、あの状況を見て「少しでも何かしたい」と思ってくれている人がいたら、ふるさと納税だったり募金経由で1円でもいいので、被災地にお金を渡してほしいと思う。色々な議論はあるものの、復興はしていくことになるし、その時にはお金が必要になるので。
あとこれも東京帰ってきて思ったけど、「大丈夫だった?」って聞かれると答えに困る(何故なら全く大丈夫ではないため)ので、「怪我とかなくてよかった、心配してたんだー」くらいで声かけてもらえると助かるなって思いました(問いかけに対し、^に書いた話をさらに具体的に伝えると99割の人がすごい辛そうな顔をしてて、辛い気持ちになるので)(ちなみに自分自身は事実ベースの話しかしないので、そこまで話をする分にはしんどくはないです)