前置き
ここから先、ネタバレしかありません。原作/映画どちらも未履修だけどネタバレOK!という方、全員もれなく回れ右。こんなくだらない日記でネタバレを踏むのは非常にもったいない。絶対に後悔する。原作か映画を履修してから戻ってきても遅くはない。どうか、このすばらしい作品をまずは自分の目で観てきてはくれないだろうか。ただ、人を選ぶ作品ではある。断言してもいい。それでも観る価値はあると思うんだよな〜ってことで、前置き終わり!
映画「ルックバック」
原作者の名前以外なにも知らずに劇場に足を運べたのは、ある種の奇跡だったのかもしれない。家に同タイトルの漫画があるのに何故かスルーしていて読んでおらず、ジャンプ+への初掲載時にはかなり話題になっていた(と後で調べて知った)というのにわたしの人生からすり抜けていたらしい。もっと早く知りたかった……!という気持ちと、初見が映画で良かった……!という気持ちが感動体験という名のリングの上で殴り合っている。答えが出る日は来るのだろうか。
過去に書いた日記にもあるが、わたし自身がネタバレを全然気にしない人間だったりする。そんな人間が、己にネタバレ禁止(見る方)を課した。とにかく情報は避けたし、おかげでTLへの出没率も若干減った。とにもかくにも、この映画はネタバレなしで観たかったのだ。なんだか自分にとって特別な映画になりそうな気がして。結果的に、その予感はなにも間違っていなかった。女の勘は当たる。
前述の通り、作者の名前以外の前情報を持たずにスクリーンの前に座った。登場人物の名前はおろか、おおまかなストーリーさえも知らないまま。なぜそんなわたしがルックバックを観に行ったのか、それはTLに現れたひとつの投稿がきっかけだった。
「ルックバックは観るべき」
ただそれだけの、わずか一行のメッセージで劇場に赴くことを決めた。ここでネタバレの一言でもあったのなら、味わった感動の何割かはなくなっていたのかもしれない。もう名前もわからない誰か、あのときひょっこりとわたしのTLに現れてくれなかったらきっと観ることはなかっただろう。
それからメッセージに加え、作者が藤本タツキ先生だったことも後押しとなった。短編集に収録されている「妹の姉」が好きで、人物、背景、心理描写全てにおいて圧倒された読後感は生々しく記憶に刻まれている。「藤本タツキ先生で一番好きな作品は?」と問われたら、間髪入れず「妹の姉」と答えるくらいには好きな作品だ。ルックバック同様、妹の姉も人を選ぶ内容だが、美術に執着がある人ほど共感できる内容だと思う。興味のある方はぜひ〜。
それでもってここから先は感想という名のネタバレしかないので、見たい人だけスクロールを。
井の中の蛙が大海を知れば
個人的に、映画を一言で言い表すならこうなるかな〜って言葉をサブタイトルに置いておきます。
人間模様の描写がすごかった。絵を描く人々の話なのでアニメーションとして映像の出来が良いのは大前提なのかもしれないけど、漫画では表現しきれないところを補完したような作品だった。さすがに漫画ではどう頑張っても音の表現に限りがあって、読者の想像にゆだねるしかない部分が少なからずある中で、声優さんのお仕事の偉大さを思い知ったというか……。あと音楽もよかった。haruka nakamuraありがとう……。
冒頭、藤野が机に向かってずっとなにかを描いているシーンは時間にすると結構長かったと思うんだけど、長さを感じないというか、飽きさせない工夫が見て取れた。そのあたりはジブリの映画観てるときと同じ感想を抱いてて、静止画と思いきや画面のどこかは必ず動いてるなって。ジブリでも人物は動かないのに背景では木の葉が揺れてたり水が滴ってたり、みたいな。鏡越しで藤野の顔が見えたのは映像ならではの表現を体感した。地味だけどあのシーンすごく好き。
藤野の言動により、この後しばらく共感性羞恥のオンパレードで、小学生くらいから絵を描いてる人間が通過するであろうエピソードが盛りだくさん。「うわああああああ」「やめてくれ!!!」ってなったりもした。例に漏れずわたしも藤野をやってたときがあったので……。だからこそ、順調だった日常がある日を境に挫折に変わり、ひとつのきっかけで再起し夢を追うというストーリーが刺さりに刺さったんだと思う。
井の中の蛙だった藤野が京本によって大海を知り、挫折を味わわせたのも再起させるのも京本で。後のパラレルワールドで知ることになるが、京本は藤野と対面しなくても自分の好きなものを見つけられたけれど、藤野はそうならなかったところがちょっと苦い。京本は藤野の存在があって広い世界を見れたと思いきや……なのが妙にリアルで。逆に藤野は京本がいたからこそ輝けたし、依存していたのは藤野の方だよな〜って。京本は絵を描くという共通点で藤野に憧れてはいたけれど、最初から最後まで依存してはいないように見えた。
ふたりの姿を追うと、創作する人間と受け取る側の違いみたいなのを痛感する。創作する人間のモチベーションって他者からの評価で結構変わる人がほとんどだと思う。わたしもそう。藤野だって、敵わないと思っていた相手からの純粋な賞賛を受けて再び漫画に向き合った。他者からの評価には一瞬で折れた心を修復するような、それでもってまた走れるだけの燃料を投下するような、それだけの力がある。
創作って苦しい。「好きだから」を理由にいつまでも続けられない。恐らく、創作者の大多数がこんな考えを持っている.……と思う。表に出さないだけで。嫌な言い方になるが、そこには承認欲求だとか執着心、一見すると醜いものがいっぱい詰まっている。好きだから続けるんだ、と胸張って言えるなら誰もこんな底の見えない泥の中でもがいたりはしない。好きだからこそ憎みもする。いやまあ、絵のことは好きなんですけどね。本当に。でも、それだけじゃないよって話です。
藤野に自己投影する中で、京本の異質さに気付く。京本の存在が浮世離れしているのは、彼女が良くも悪くも外の世界から隔絶された日々を送っていたのだと推測できる。藤野と初対面した際の喋り方でも、典型的なオタクの喋り方だ……!(諸説ある)という捉え方以外にも、コミュニケーションが足りない環境で育ったんだろうなっていう感じの。放任主義ぽく見えた家族とは会話も少なかったんじゃないかな。
藤野に自己投影したのは言動の他にも、作中で出てくる書籍、だいたいわかるしなんなら持ってる……と自分と重ねざるを得ない状況になっちゃって。有名すぎてガチめに絵描いてる人のほとんどが持ってると確信してる。わたしですら持ってるし。
言動もさることながら、持っている書籍まで……こんなにお膳立てされたら、藤野に自分を重ねざるを得なくて。京本はその存在ゆえに、フィクションの枠からはみ出なかったことも大きいと思う。大きいスクリーンをときどき白く曇らせながら、瞬きも惜しくなるくらいにふたりの姿を追った。
良き理解者はいなくなってからその価値に気付くし、その気持ちは置いていかれた側にしかわからないものだったりもする。さっきも書いたが、一時間という短い時間で描写されるには、ひとりの人間の人生がそこにあった。そう感じたことは、わたしが自己投影の末にどれほど映画にのめり込んだかの証左になればいいなと思う。
所感
わたしには中のことはわからないが、ルックバックは先生の意図をしっかり汲み取った作品であればいいなと思うし、そうであって欲しい。紛れもなく良い映画だった。最近は漫画の映像化で悲しい出来事が増えていて、憤る世の中や人々の声に触れることが多かったから、そういう悲劇めいたものが欠片も見えないことに安心したのかもしれない。そう思えば、うつくしく昇華された作品はこの先どれだけ生まれてくるのだろうか。ある種、貴重なものとも言えるのではないだろうか……なんて。内容もさることながら、世情を絡めてみると観る価値は大いにあるんじゃないかな。特に今の世の中では。