3月12日

gyouzamochi
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昨日はディズニーで早寝遅起きになり疲れていたので、10時半過ぎにゆっくり起きた。大阪の親戚が買ってきてくれたりくろーおじさんのチーズケーキを朝ごはんにする。初めて食べたんだけど、箱のあらゆるスペースにこまごまといろいろなことの説明が書いてあって、親切を通り越してうるさくてウケた。

今日は卒論の担当教授と、教授が担当している他の学生たち……(一言で「ゼミ」といえば伝わりやすいのだろうが、極力そのように呼びたくない。わたしの大学生活にゼミが存在したことはないからである。他の学生たちとわたしの研究内容との共通点は「社会学関連」「質的研究」の2点だけだし、教授にはろくに指導を受けてない。)……と夜ご飯を食べる予定があった。

この雨の日に往復3時間かけて通学して上記の集団でピザ食べる会、ぶっちゃけ無益では……? 体調あんまよくないし、行きたくない……。という気持ちと、ゼミが存在しなかったからこそ貴重な集まりには出席しておくべきだろうという考えが衝突し、ぎりぎりまで悩んだうえでやっぱり行こうと決断したところ、他の人の都合で来週に延期された。なんやねん。いいけど。

一日だるくてあんまり何もせず、絵も描けず、黙々と家事などして過ごした。

クナイプの桜のバスソルトをお風呂に入れた。お上品な香りと、お湯がピンク色になってかわいいのとが気に入ったし、あたたまった。ただ、このバスソルトに限らず入浴剤全般に関して、もうちょっとはっきり香ってくれてもいいのになと思う。わたしの嗅覚があまり鋭くないこともあるだろうけれど、楽しみにしていた香りがあまりに「ほんのり」だと拍子抜けしがち。LUSHとかもあれ、店頭に並んでるときはあんな強烈な香りのわりに、お湯に入れたらそこまででもなくない?

⚠ここから、同性愛差別について

食後に皿を洗っていたらふつふつと異性愛規範への怨嗟がにじみ出てきた。最近きょうだいに異性愛展開が発生し、それは当然好きにしたらいいし円満に楽しめるよい関係になるといいねと思っているのだが、周囲の祝福やワクワクしたムードに、まだ子どもだった自分が恋愛をしたときとのあまりにも大きな落差を見てじっとりとした気分になる。きょうだいはデートをひやかしまじりに祝福され、万全のコンディションで臨めるようアドバイスを受けているが、わたしはすべて否定され、なかったことにされ、なぜか怒られ、恋人と一緒に遊びに出かけると言うとおそろしく冷たい目で見られた。きょうだいは、今後恋人と破局したり恋人との関係で悩むようなことがあれば、励ましや慰めを受けるだろう。いきなり恋人にすべての連絡を絶って転校していかれた高校1年生のわたしは、ごく親しい友人をのぞいて誰にも相談できず、なにごともなかったかのようにふるまおうと全力でがんばって、授業中に涙が止まらなくなったり手首をガリガリに引っかいたり顔面マジでものすごいにきびだらけになったりしながら過ごしていた。その人とは今でも連絡がついていない。その人個人の問題だったのか、わたしを含む他者など外的要因のせいだったのか、今となってはわからない。もう日常生活の中でその人のことを考えることはめったにない。ただ深層心理ではそうでもないのか、ごくまれにだけど、夢にその人が出る。わたしはほっとして、なんで連絡してくれなかったの、と問いながらもすべて許せる気持ちでいる。ごめん、【任意の理由 夢ごとに異なる】だったから連絡しなかったんだ、でもまた遊ぼう、連絡先も交換しよう、とその人が言う。なあんだ、とわたしも受け入れる。それからいろいろな場所で、ふたりで仲良く過ごす。目が覚めると何もなくて、嘘である。

異性愛規範/同性愛差別と、個人間のトラブルの話を混同していないか、といわれそうである。もちろんそれらは別で、わたしのケースではその両方にいっぺんに苦しめられたという話だ。ただ明確な同性愛差別の悪影響として、悪い意味でクローズドな関係にせざるを得なかったという点がある。その人が突然いなくなったとき、異性愛の関係であればもっといろいろな人につらさを打ち明け、相談し、気持ちの整理につとめられたと思う。けれどそうではなく、特にわたしの親はその人のことを「娘を『変な方向』にたぶらかした最悪のガキ」ぐらいの解像度で見ていたので、トラブルについて親に話すことは、そういった見方を利するように思われた。悪く言われたくなかった。うまくやっていると思わせたかった。女と変なことをするからこうなるんだ、と言わせる隙を絶対に絶対に与えたくなかった。よかったのか悪かったのかわからないが、狙い通り、本当に家族には何も気づかれず、わたしは偽装に成功してしまった。気持ちの整理はひとつもつかないまま6年が経ち、その人に対する未練は前述したようにそれほどないけれど、あらゆる親しい関係性において突然置いていかれることへの恐怖や猜疑心はいまでもわたしに残っていて、それも弊害といえば弊害である。

そも、異性愛関係であっても、民族的マイノリティや被差別部落出身者、障害者やその家族であることなどを理由に関係性を封じ込められ、呪われることはあるのだから、「異性愛/同性愛」というカテゴライジングはあまりに雑であるとも思う。ただすくなくともわたしの個人的で政治的な経験においては、同性間の関係であることによって呪われていた。それは確かである。