家のことでメンタルがかなり終わっていて書く気がしなかったので書かなかった。家のこと、というとそれだけみたいだけれど、わたしにありがちなパターンとして、事象Aによって生じたショックや落ち込みや怒りを事象B, Cなどに結び付けて「物語」化してしまうところがある。それぞれまったく別個の部分があることはわかっているんだけど、「自分の人生はこうなんだ(なぜならAもBもCも同じような構造で、同じような影響を自分に与えていると感じられるから)」とか「(Aをふまえて)やっぱり、これだからBみたいなことも起こるんだよな」とか思う。だから何か一個の出来事で落ち込むとそれとは別に抱いているコンプレックスとか不満とか不安とか不信とかがぜんぶ一緒に来る。でも家庭環境が良くも悪くも人間のライフスタイルや人間関係の築き方を左右しがちなのは事実だし、決してこじつけているわけではない、完全に間違っているわけではないと思うんだけど。かといって望ましい認知でもないよね。
家にヤバさがあるのはもう「常」のことなのだが、今回は幼少期からやってきたケア労働がケアを強いてきた当人にそもそも全然認識されていないどころか加害者みたいな扱いをされていることに驚愕しすぎて心が折れ、そいつが大みそかに突然実家に帰ろうとしだしたのでアホかおせちの食材無駄にすんなボケと思いつつもそんなに帰りたきゃ帰れせいせいするぜと思っていたら結局ふつうに家に居座ってテレビとか観ていて(でももし31日に帰省していたら石川での地震に巻き込まれてなかなか帰れなくなりこちらともども大変なことになっていたと思うので、危ないところで幸運だったと思いつつ、むかつく)、そういう状態なのに正月なので家族で初詣に行ったり犬を遊ばせに行ったりしていちおう機嫌よさそうにふるまわなければならずもう無理だった。父親のためにやっているのではないのに父親が調子に乗ってヘラヘラするので、まったく許していないことを示すために定期的に冷たい目で見つめている。言おうと思えば言えることが死ぬほどある。しかし母親にも、怒りはわかるが言葉や口調が強すぎる、立場を考えてと諫められる。了解。論外のクズや、気遣い、ねぎらい、場を和ませる言葉などをかけられない(かけようと思わない?)妹に代わって、わたしが末永く感情労働をやっていくらしいです。
なまじ気が強く、言語化が得意なせいか、どんなに傷ついて疲弊していて、それを懇切丁寧に開示していても全然人に心配されないことが多い。というか、心配してくれているのかもしれないんだけど、そんなの言葉とか行動がなければわかるわけがないし、何もなくても「みんなそっと心を寄せてくれているんだなあ 出会いに感謝!」的に楽観的に解釈することを求められている?(のか?おい。)のが本当に舐められているな~と思う。見えない内心って他人にとっては存在しないのと同じなんですよね。
この期に及んで「でもおまえは経済的に恵まれているし、社会的にも特権があるじゃん」と自分に言われる。仕事のための勉強を全然できていない。犬はかわいい。地震のことがすごく心配。ツイッターで「オトナブルー」のパフォーマンスを批判したら昨日の夜の時点で1.2万いいねついてて最悪だった、通知切って引用とかリプは見ないようにしてる。今時刻を見て気づいたけど3時間半後に短期バイトの面接があって、どれか一つ採用されればいいやと思って3つほどバイトに応募したはいいものの、なんか全部対面面接でかなりめんどくさくなってきたよ。