時間の意味が重すぎる。
どういうことかというと。
SNSやこの『しずかなインターネット』もそうなのだけど、たとえば5年前の、どこに出しても誰に見せても問題ないメモが出てきて、どうせならインターネットの海に残しておこうと思ったときに、僕は約5年前の適当な、嘘にならない範囲の日付でそれを書きたいのだが、それができるSNSはまずない。「これは5年前のメモなのだけど」と前置きをせねばならない。
技術的な理由は分かる。データにとって時刻は大事だし、なんなら電子署名の際には重要になるのが時刻。SNS、特に分散型SNSのように、経路間の信頼性が相対的に下がる環境では、データのプロパティとしての時刻が改竄されてはならない。
(余談だが、gitも改竄に対する一定度合いの対策はされていて、コミット時に時刻を任意に設定できるほかは、時刻を改変しようとすると副作用が非常に大きくなるようにできている。また、以前のコミットよりも過去の時刻を指定したコミットもできなくはないが、履歴上人間の目には矛盾が見えてしまうことになる)
しかし、どこに出しても誰に見せても問題ない、言ってみれば「チラシの裏」レベルのメモで、たとえば——約5年前、ちょうどコロナ禍で世間が静まり返っていたとかそういう時間的背景は大事だが、5年前の9月の話であることが分かればよい——くらいの話で、「コミット時刻」くらいは指定できていてほしいし、時間軸の前後関係をコミット時点で拘束されてほしくない。
いちおうセキュリティでご飯を食べている人間なので、技術的な理由も、時刻や時間を疎かにしてしまう場合の影響も、ぜんぶぜんぶ、言えるんですよ。プロだから。でも、だからといって、「チラシの裏」にまでも同じように技術やコンプライアンスみたいなモノが適用されてしまうのは、ちょっと重すぎるよね? という話なのである。セキュリティって、ちょっと気をつけていないと、すぐ杓子定規になるからこわい、とも言える。
そういうわけで、個人サイトを作るのはいまでも大事なのではないかと思っている。要は、「チラシの裏」を「チラシの裏」レベルのセキュリティで(インターネットなのだから「チラシの裏」にもセキュリティは要るのだけど、セキュリティをフルでやらなければいけないものでもない、ということ)、実現できないかなあということを思っている。ガワはAstroか11tyかHugoかHexoかJekyllかは問わないけどガワとしてgit管理をする、でも、コンテンツは時間軸の拘束なく持たせたい。たまにはふと、20年前のメモをしれっと20年前の日付で貼る、そういうことも許容したいのだけど、いまはどのシステムも、時間の意味が重すぎる——と思っている。