2024/02/24 信号前

hachimoto8
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今日(2/25)ぶっ倒れて何もできなかったので街で見かけた趣深い光景を書きます

大通りの交差点手前で二人乗りの暴走族が「ヒャーハッハ!ヒャーハッハッハ!」ってジョーカーみたいな高笑いで走ってきて、ギリ赤信号になったらスッと止まった

2024/02/26追記

連続更新記録を途絶えさせたくなくてとにかくなんでもいいから投稿しておくという卑怯な手で延命をはかったわけですが、こういうことするとクセになるからよくない。

最近やっと小説の世界にアクセスできるようになってきていて、朝方少し長編の続きを書いた。午前中は遠くで仕事があって、昼にカフェに入ってぼーっとした。「他の物に自分を乗せる」という感覚について考えていた。乗せやすいのはぬいぐるみとかハエトリグモとかで、でも冬は基本的に虫がとても少なくなってしまうから寂しい。乗せるというか仮置きする、もたれるという感覚が正しいのかもしれない。世界から知覚できる情報はいろいろありすぎてどこに焦点をあてていいかわからないので、そういう時こぼれてしまう自分をまとめてどこかにほいっと乗せると安定する。それが物をいきいきと見せるのであり、アニミズムの正体でもあるのではないのか?私は信仰を持つ人のように世界からの眼差しを感じることはほとんどないけれど、物に自分が入る、または物の魂に自分の脳の演算能力を貸す、という感じならわかる。自分を乗せる対象はぬいぐるみとか壁のしみとか虫のように空っぽ度が高いと思われるものの方がよく、そういう意味で自分と同じ人間はあまり向いていない。でもその時座っていたカフェのカウンター席の正面にはガラスの間仕切りがあって、下から上へと疎になるドットがプリントされていた。向こう側には祖母、母、5歳くらいの孫、の母子3代とおぼしき3人が座っていたが、それは人間にしては珍しく乗せやすかった。ドットの効果かもしれないし、耳栓をしていたからかもしれない。孫が勝手に母親の皿から食べ物の欠片をつまんだり、祖母が孫のほっぺたをさすったりしているのを見ていると、3人の感じていることがごっちゃになって入ってくる感じがした。3人それぞれに乗せているというよりは、その3人から生まれる空気に自分を乗せたという方が近い。

同居人は遠出をしていて夜21時過ぎに帰ってきた。車を実家に返しに行くというので、まだ実家を見たことがなかった私がふざけて「連れてって」と言うと、珍しく「いいよ、こんな機会でもないと行かないと思うから」と了承してくれた。同居人の両親はすでに亡くなっていて、私は彼らと最後まで一度も面識がない。そのことは少し悔いになっている。同居人がどんな場所でどんな家で育ったのか見てみたい気持ちもあった。散らかってるよと言われた通り、同居人の実家は物が多かった。本がたくさんあって、思い出の写真やノートやかわいらしい動物の小物などが机にも床にも所狭しと並んでいた。少しずつ掃除をしてるけど物をどうしたらいいかわからないんだよねと言われ、わかるなと思った。どれをとってもかけがえのない宝物のようでもあるし、なんにもならないガラクタのようにも思える。今はない人の面影を含んでいるなら、なおさらだ。「高校の卒業アルバムとか見る?」と訊かれて即座に「見たい」と答えた。同居人は、今とあんまり変わっていなかった。笑顔の印象は年齢を重ねてもそんなに変わらないようだ。驚いたのは、遠足の全体写真で同居人がぬいぐるみを抱えていたことである。別の集合写真でもぬいぐるみと一緒に写っていた。聞いてみると友人が持ってくるひよこのぬいぐるみを仲間みんなでかわいがっていたのだという。アルバムの寄せ書きにはその友人の「かわいがってくれてありがとう」という一言も添えられていた。ぬいぐるみとの関わり方は上手い人下手な人がいるが、同居人はその点はじめからかなり達者だなと感じていた。高校の日常にぬいぐるみがいたなら納得だ。ちなみに、人格はないわけではないがあまりはっきりしていなかったという。そういえば自分を振り返ってみても、高校生の頃の友人に「えつこ」という兎のぬいぐるみといつも一緒の子がいて、部活のみんなでかわいがっていた。えつこも、少なくとも部活の場では人格がなかったような気がする。リアクションもしなかった。喋るかどうかは置いておいて、ぬいぐるみを社会的な場に持ち出すという行為そのものは、けっこう柔軟性があって他者に受け入れられる余地があるのかもしれないと思う。同居人とぬいぐるみの知らない面に触れられて嬉しい日だった。

@hachimoto8
なるべくしょっちゅう書く/始めないし終わらない/これで完成でいいや