2024/02/01 インド映画を観た

hachimoto8
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相変わらず体調と集中力は終わっているが、客観的に見ると元気になってきている気がする。病院の定期受診で相談して処方薬を変えてもらったし、そのままカフェをはしごしてPCで仕事をした。しかし何の仕事をしていたのか、ここが思い出せない。一番やりたかった肝心な仕事には手をつけていないし、小説もまったく書けなかった。かと言ってさぼっていた記憶もない。何してたんだっけ…?

思い出した。割とサクッとできるはずの軽めの仕事をダラダラやって、ずっとさぼって溜め込んでたスケジュールの登録をして仕事の連絡を返したんだ。普通に自分の尻拭いをしていた。しかもMPが足りなくてまだ返せてない連絡もある。あと、アプリで漫画読んだりもしたし全然必要のないインターネットの長文記事を読みまくっていた。さぼっていた記憶自体が頭から抜けている。どうなってるんだ。客観的に見ても別に調子よくなってないじゃないか。

午後はインド映画を観た。『サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者』。3時間もあるインド映画を観ている場合では絶対にない。でも面白かった。英国の支配下で反乱を起こしインド独立運動の先駆けとなった実在の指導者、ナラシムハー・レッディの誕生から死までを叙事詩的に描いている。ナラシムハーと恋に落ちながらも、ナラシムハーがとある祈祷のために幼くして既婚者になっていたと判明し身を引く踊り手、ラクシュミが後にタミルの民にナラシムハーの武勇を伝えるアジテーターになる展開が熱かった。ただ『RRR』と同様かそれ以上に英国の人々が殺してもなんの罪悪感も湧かない悪辣非道な人でなしに描かれており、エンディングで建国の士たちがひたすら紹介されるという点も似通っていて、おまけに最後は全画面表示の国旗と”JAI HIND”(インド万歳)のメッセージが示されて終わるので、「もしかしなくてもめっちゃ右傾化してますよね…?」という危惧も残った。いや、独立運動の歴史や誇りを(ものすごく脚色されているが)次世代に伝えるのは大事だと思うし、この気まずさの大部分は自分の生まれた国・地域が植民地支配を行った過去があり英国の立場に近いことに起因しているのかもしれない。また国の主権者であるにもかかわらず当事者意識が欠如しているために、命を賭してでも祖国を自分たちの手に取り戻しそうと武器をとる人々に共感できないのかもしれない。それでもたとえば民衆を率いる英雄・ナラシムハーが言う「これは狩猟だ」というセリフは、「農民であっても英国兵と戦闘で渡り合える、なぜならお前たちは従軍経験はなくても日常で狩猟をするではないか」という文脈で発せられたことを差し引いても、人間を動物に見立てることで殺戮の罪悪感を軽減するレトリックを用いていて本当に、本当に危険だと感じた。だって現に今ガザでは同じようなレトリックで虐殺が正当化されようとしているのだ。その批判を歴史的に非人間的な扱いをされ踏みにじられた側の描写に向けることは間違っているだろうか?

もっと恐ろしかったのはこれだけ乗れない自分を抱えつつも、鑑賞中はそれなりに高揚させられるし鼓舞されたことなんですよね。自分の一部はきちんとナラシムハーを指導者と仰ぐ民衆の一員になっていた。そして一昨日の日記で音韻に浸って自我を補強したいみたいな欲望のことを書いたけれど、「サイラー」の劇中歌はどれも見事に脚韻を踏んでいてばっちり高揚させられた。だから韻文に陶酔する認知的特徴と、思想を同じくする集団に一体化したいという欲望は、もちろん違う話だが、それでもどこかで接続するのではないかという直感がある。標語とか労働歌とか軍歌が大体七五調であるのと同じように。人間はパターンを見出すと気持ちよくなっちゃう哀れな生き物。少し前にまちのひ朗読舎に来てくださった方が和歌と天皇制という切り口でトークをされていて面白かったのだけど、それを思い出したりもした。

@hachimoto8
なるべくしょっちゅう書く/始めないし終わらない/これで完成でいいや