名古屋2日目、朝起きてコメダ珈琲今池店でモーニングを食べた。今池店は現存するコメダ珈琲で2番目に古い店で、デイリーポータルZで「レトロコメダ」として紹介されていた店の1つだ。1番古い高岳店にも行きたかったけど残念ながら日曜は開いていなかった。お店は賑わっていた。ウインナーコーヒーを頼んでトーストに小倉を乗せてもらった。ここのお店はフランチャイズを脱会していて普通のコメダとメニューなどが違うそうなのだけど、コメダ珈琲に行ったことがないから比較はできない。木彫りの面や像があちこちに飾られていて居心地が良かった。コーヒーを飲んでバターしみしみのあんこトーストを食べたら元気が出てきた。
名古屋市を出て碧南市に向かった。愛知県を馬に見立てると下腹あたりに位置する海に面した市だ。行ったことないし名前も今回初めて聞いた。着いてすぐひつまぶしを食べた。普段は誰かに誘われるかいただくかしないと鰻は食べないと決めているけれど、そのルールを枉げてのひつまぶしだ。目当ての美術館のそばにあるというだけで入ったがこのお店が大当たりだった。鰻の表面がパリッとしていて、でもふわふわでタレが甘辛い。量が結構あるけど、味を変えて4回に分けて食べられるのもいい。初めて食べたせいでひつまぶしの基本情報を説明する人になってしまうな…。通されたカウンター席の端には「厨房の撮影はご遠慮ください」と張り紙がしてあり、厨房なんて見えないけどなあと思ったらその張り紙のそばの曇った壁こそが窓だった。ガラスの向こう側を油煙が真っ白に覆っていて、茶色いタレも点々と跳んでいる。その向こうで大きな鰻の串焼きがひっくり返されている様がぼうっと霞んで見えた。外に出るとお店のダクトからも煙がもうもう出ているのに気づいた。落語の「鰻の匂いで飯を食べる」というやつが本当にできそうだ。ダクトの下には油と煤が混ざりあった黒い泥がビトビトと落ち、鰻の脂っ気の多さと繁盛ぶりを物語っていた。こういう些末で汚いところばかり面白がってしまうのは私の悪い癖だが、本当においしかったんです。おすすめです。十一八というお店。11時半に着いたけど15分ほど待ったので混雑時はさらに待つと思われる。
腹ごなしに散歩してから碧南市藤井達吉現代美術館に行った。「顕神の夢 ―幻視の表現者― 村山槐多、関根正二から現代まで」を見るためだ。幻視や幻聴、啓示によって「何か受け取ってしまった人たち」の作品展で、宗教者や近代・現代作家の作品約100点が展示されていた。ちょうどギャラリートークの時間に当たり、学芸員さんは「自己表現ではなく、ある意味で受け身」と評されていた。作品の解説には作家自身の著書やインタビューの抜粋が添えられており、そのほとんどは作者による難解な解題だが、「もうやめようと思ったのにまた描いてしまった」「バカバカしい大作に取り組んでいる」という内容のものもいくつかあった。自分でも訳のわからない何かに駆り立てられて筆をとっているのだ。自分と同じ80年代後半生まれの作者の文章は、なんとなく見た時にわかるのが不思議だった。文字のツラがつるんとしているというか。
強烈な作品はいくつもあったが、八島正明「給食当番」は印象に残った。キャンバスに白の絵の具、黒の絵の具を重ねて針でひっかく画法を用いる画家で、実体が不在の影法師だけの絵をいくつも描いているという。そのきっかけは広島の原爆資料館にある人影の石にインスピレーションを受けたこと、また、戦争で幼いまま亡くなった妹を思い出したことだ。「給食当番」は学校の暗い廊下に落ちた影法師の絵で、その影は少女のように見え、抱えている給食の食缶はいかにも重たげだ。ふうふう言いながら一歩ずつ進むゆっくりした足音やカチャカチャンという食缶の立てる音まで聞こえそうだ。亡き妹が成長していれば、こんなふうに苦労して給食を運ぶこともあっただろう。見守るような優しい眼差しが感じられる一方で、画面は暗く緊迫して影法師は何よりも濃く黒い。喪失の穴が穴のまま描かれている、と思った。
若林奮の犬のドローイングもよかった。気の抜けた線で描かれているが一目で好きになった。横向きに立つ犬の背中から二筋の煙が立っている絵「1994.5.8」、犬と犬の不在が向き合っているような絵「1998.5.2」。本業は彫刻家で、犬がモチーフの作品を多く残したそうだ。『若林奮 犬になった彫刻家』という本が出ているので読んでみたい。
上田葉介「積みあがる形」も好きで、竜巻のように色彩がほとばしっている。「中世ヨーロッパの絵画技法を下敷きにしつつ、実際の風景を写し取るという役割から光と色を解放している」…というような解説があったと思うがうろ覚えだ。馬場まり子「海から見た風景Ⅳ(月は東に日は西に)」は世界から自分が異化されたような不安を感じた。それから藤山ハンの「南島神獣―四つのパーツからなる光景」は血涙を流す地神ケンムンの恐ろしい形相に目をそむけたくなったが、忘れがたい。
ただやはりこの展覧会に展示されているのでなければすたすた通り過ぎただろうというような、ピンとこない作品もあった。作者が何か強烈な霊感にとらわれて筆をふるったのだとしても、こちらにそれを受容するアンテナがないから、受け取れないのだ。心が動かされるのは亡き妹への思いだとか、人間が到達できない犬の魂への思慕だとか、この世界へのなじみ難さだとか、自分もようく知っている、少なくとも想像できる作品ばかりである。信仰心が薄いためかもしれないし、現代芸術を鑑賞する姿勢ができていないせいかもしれない。たぶんその両方だろう。
全部見終えるのに思ったより時間がかかって、美術館を出るとかなり疲れていた。本当は帰りにキンブルという愛知県郊外に展開しているディスカウントショップのチェーン店に立ち寄りたかったのだが、ここで乗り換えミスをした。刈谷市駅を刈谷駅と早合点して降りてしまったのだ。次の電車もなかなか来ないし、30分くらい歩いて別の路線駅に向かったのだが、店の最寄り駅からも往復で1時間歩くのだと思うとだるくなり、そのまま帰ることにした。ひつまぶしがおいしすぎたので凝った夕食は取らず、名古屋駅構内で立ち食いのきしめんを食べた。帰りはずーっと平野啓一郎の『空白を満たしなさい』をオーディブルで聴いていた。
タブレット持っていったけど日記書くのと虚無の時間にYouTube観るのにしか使わなかったし、持っていった本は一回も開かなかった。そのくせ替えの下着と肌着は忘れた(なんとかなった。旅行の準備は忘れたらどうにもならない物にだけ気を配り、あとは旅先でなんとかする姿勢が大事)。ずっとリュックを背負っていたからさすがに背中がバキバキだ。最近日記が長くなってきてて良くない。1200字くらいでサクッと終わらせたいものだ。この日記は小説を書く前の景気づけにしようとして始めたんだから。