衆議院選挙の投票に行ってから国立民族学博物館へ。創設50周年記念特別展「吟遊詩人の世界」に行った。みんぱくの特別展は下手すると午後の到着では遅いくらい内容たっぷりだけれど、今回はもともとウィークエンドサロン「モンゴル高原、韻踏む詩人たちの系譜」が目当てだったので、せかせかせずに一階の展示を中心に見た。
定刻になったのでウィークエンドサロンに移動。20年近く前からモンゴルでフィールドワークをしている島村一平教授による発表だった。以下は不正確な点もあるかもしれないが、覚え書き。モンゴルの中でもマジョリティのハルハ族ではない、オイラト系とくくられる人々の中に、トーリチと呼ばれる吟遊詩人がいる。とはいえ伝統芸能化しており、今では見られるのは2箇所の地域だけだ。遊牧生活では書物は荷物になるので、口承文芸が発達し、一種の記憶術として覚えやすいように韻文が発達したのではないか、と推測されている。トーリチは英雄叙事詩を歌う人々だが、子宝祈願にはこれというように特定のお話にご利益が設定されており、つまり物語ることが祈祷を兼ねている。それを証明するかのように、「吟遊詩人のいるところにはシャーマンがおらず、シャーマンのいるところには吟遊詩人がいない」と言われているそうだ。子どもの間には「かけあい歌(けんか歌、ダイラルツァー)」と呼ばれる遊びがあり、これも韻文で交わされる。ダイラルツァーは学校の教科書にも載っている。ことわざや早口言葉にも韻文が根付いている。
一方でもうひとつモンゴルには重要な韻文の文化があって、それがラップである。海外からの影響が大きいため、上記の吟遊詩人たちと安直に結びつけることはできないけれど、それにしてもモンゴルのラップ人気は日本と比べても高いという。政治批判を込めた楽曲も多く、そのこともあって島村教授はラッパーを吟遊詩人の系譜と位置づけている。
余談だが、10年くらい前にモンゴルではシャーマンの都市化が急速に進み、多くの人がシャーマンとなる現象が起きたそうだ。本題ではなかったのでくわしい説明はなかったが、職業にするわけではなくて、人生で辛い目にあった人が対処法としてシャーマンになり、自分や身近な人を癒やすという文化が流行したらしい。島村教授によると「しまいにはフィールドワーク中に雇っていた私の運転手までシャーマンになってしまった」という。そして彼らのいう「精霊が降りてくる」とはどんな感覚なのか、その秘密を頼み込んで尋ねてみると、「それは霊的なものではなくて、言葉の中から現れるんだ」という。シャーマンたちも祝詞などで韻文を唱えるのだが、唱えているうちに意味ではなく音声に導かれるようにして、自分で思いついたとはとても思えないようなメッセージが訪れるのだと。
合わせて日本のフリースタイルラッパーたちのいわゆる「降りてくる」感覚についての発言が紹介されるが、そこでもやはり「口から出てくる」「パパパパパッと」「無意識に」「勝手に行われる」という中動態的な説明がなされている。いいなあ、やっぱり私はフリースタイルラップをやるべきかもしれない。ゾーンというやつを体験してみたい。リズム感皆無だけど。
講義のあと、モンゴルのラッパーKaさんのパフォーマンスが特別展の方で行われた。時間や人生について歌ったものが多かった。簡単な解説はあったけれど、言葉の意味はわからないので、韻のかっこよさしか伝わってはこない。この難しさは今回の特別展のあちこちで感じたことで、当たり前だけれど音楽も歌も展示物からは読み取れない。音声や映像の資料、翻訳などでかなり工夫はされていたけれども、どうにも歯がゆさが残る。それが韻文ともなれば、詩と音とは一体になっているから、韻を無視して事細かに意味を伝えたところで体験としてはまったく別物だろう。
その他メモ。ベンガルの吟遊詩人バウルは、右手で一絃琴エクタラを弾き、左手で太鼓ドゥギを叩き、足首の鈴で拍子を取りながら歌う。マネキンを真似て演奏のポーズを取ってみると、それだけで高揚の気配があって驚いた。制作環境や機材が紹介されていたラッパーの志人(しびっと)の作品を帰りがけに聴いてみると、民話や仏教に素材が取られていて、こういうラップもありなんだと思った。展示されていた書き殴りの原稿用紙も、南方熊楠を思わせる没頭感がただよっていた。二階で上映されていたグリオのニャマ・カンテのパフォーマンスが良かった。
12月10日までやってるからみんな観に行ったほうがいいよ。