爆弾低気圧の日に五苓散を試してみた続き。前日に飲んで、朝と夕方にも飲んだ。結果、割といい感じに過ごせたような気がする。少なくとも朝から夕方までベッドで磔になったように動けないとか、背骨がガチガチに固まってそっくり返ってしまうとか、全身の血がゼリー寄せになるとか心臓が動かないとか、真ん中に「死」と書かれた大きな手のひらが空から降りてきて自分を押しつぶすとかいうことはなかった。そこそこ仕事にも集中できた。ただしだるさと眠気は別なようで午前中激しい睡魔に襲われた。眠気はカフェインで適宜散らす必要があるようだ。でも、五苓散は血管を拡張すると書いてあったけどカフェインは血管を収縮させる作用があったはずで、そうすると効果はどうなんだろう。あと利尿作用があるのか、いつもよりトイレに行く回数が多かった気がする。爆弾低気圧が来る日は飲み続けてみようと思う。
図書館で若林奮関連の資料を読んだ。図録が3冊と、死後近しかった学芸員が出版した酒井忠康『若林奮 犬になった彫刻家』。図録を見ると若林奮は、思っていた以上に抽象的で難解な作風だった。イメージの強かった犬をモチーフにした作品はむしろ少なくて、棺桶のようなものや、鉄を重ねたようなのや、桐の木を表皮だけ残してくり抜いたようなのや、いろいろな素材が使われている。空間や距離、所有についての思索的な言葉がたくさん残されているが、私にはまだピンと来ない。しかし抽象的な芸術作品を見て「もう少しわかりたい」と思うのは初めてのことだった。図録に掲載されたいろいろな質感の作品を見ていると、目をつぶって抱きかかえたくなるというか、自分をとろとろに煮溶かして作品に垂らしてみたらどうだろうと想像を引き起こすようなところがある。視覚と触覚と想像、ということについて、「大きな植物が密生する土手を渡って行く時、植物は足元から頭までは触覚、頭から上は視覚、地下は想像に属する」(うろ覚え)というようなことを言っていたのが印象に残った。味や音にすぐれた感受性を発揮する人がいるように、触覚や空間把握にするどい感覚を持つ人もいる。しかも科学的な精度に収まらず、詩的な意味でそれを仕事にする人がいるとは考えてもみなかった。とても残念なことに、昨年は若林奮の没後20年展が開催されていたのだが、この作家を知るのが遅くて見逃してしまった。1年早く知っていたらきっと見に行っていたのにな。軽井沢のセゾン現代美術館には若林奮が関わった庭園があるそうで、これは一度行ってみたい。めちゃくちゃ遠いけど。
朝、雨が降り出す前に同居人が「ふきのとうを摘もうよ~」と古歌を歌うように誘いに来て嬉しかった。うちの庭にはなぜかフキが生えるのだ。早いものはもうほどけてぽこぽこした蕾が見えている。適当なのをちぎるとすうすうするようなフキの香りがふっと立った。ふきのとうは夜、同居人が気合を入れて天ぷらにした。他の具は牡蠣、さつまいも、新玉ねぎで、どれも目をむくほどおいしかった。さつまいもご飯もあった。ふきのとうはふきのとう味噌にしてもうまいんだ。またやりたい。