週末に法事で実家に帰り、ついでに旧実家に立ち寄った。10年ぶりくらいだろうか、しかし親には黙って行った。メンタルクリニックの先生に子供時代の通信簿を持ってくるように言われていて、そのあたりの事情を親には説明しづらかった。バス停から歩きだしてすぐ向こうに大きな建物がぬっと現れた。古い住宅と鉄工所と畑ばかりの地帯に唐突な印象で突っ立つ私の旧い実家は、ベッドタウンの先駆けになりそこねたマンションだ。本当は街がもっと栄えるはずだったのが、いろいろあって開発予定が流れたという。だから付近の建物では一番大きくて目立つ。
マンションまでの道は強烈に記憶と合致するところと、すっかり変わってしまったところとがあってまだらだった。広い駐車場のあるコンビニは、当時なかった。雀荘はあった。自動車の整備工場もあった。介護施設はなかった。そんな調子で歩いていくと、ふと前方に向かって肌がざわついた。獣の気配を感じ取って体が身構える感覚。見ると、住宅の脇に古ぼけた犬小屋があった。緑のペンキはあちこち剥げ、犬の姿はなく、物置になっている。でも小学生の頃はここに犬がいて、毎朝通学の行き帰りに姿を見ていたのだ。私の体が犬のいた風景を覚えていたのだと思う。しかしその外見は思い出せない。可愛がっていたか、怖がっていたかさえ思い出せない。私の肌は緊張したのだから、たぶんそこそこの大きさの犬だろう。小型犬ではない。だが付随していた感情は今や時間に洗われてしまっていて、犬小屋にこびりついた犬の湿度みたいなものだけ残っている。こういうのも幽霊に数えていいだろうか。
マンションの敷地に入るとにわかに緊張が増した。絶対知り合いに会いたくない。見つかりたくもない。なぜと言って、小学生時代の同級生やその親世代がこのマンションにはまだまだたくさん住んでいるし、そういう人に会えば近況を事細かに聞かれるだろうし、そうすれば私が結婚も出産も「お堅い職業」に就くこともせずに自営でふらふら生きていることが知られ、その人が吹聴することでマンションじゅうに知れ渡るだろうからだ。それに私の方でも古い知り合いを見て、この人はずっとひとところにいて飽きないのだろうかとか、老いただとか自分を棚にあげて色々思ってしまうだろう。それが嫌だった。
マンションのロビー入り口近くには住民の名札が昔と変わらず掛けてあった。それによれば昔の知り合い家族はまだたくさん残っているようだった。けれどすでに引っ越したうちの名前もまだ残っているのだから、実際のところはわからない。エレベーター前で3人の女性が談笑していて、しばらく息を殺して待ったがどかなかったので、意を決して階段へ向かった。10階以上上らなければならないが知り合いに会うよりはマシだ。汗だくになって階段を上ると息が切れてきた。自分はこんなにも昔の知り合いに会いたくないのか。視点がどんどん高くなり、見慣れた風景が立ち上がってきた。マンションの高層階に育つ子どもは、いつも落下への恐怖と誘惑を感じて育つ。それがよくあることなのか、自分だけなのかはわからない。幼いなりの死にたい理由があってもなくても、いつか自分がそれをしてしまうのではないかという危惧を常に感じていた。住んでいた頃は1、2年に一度飛び降り自殺があった。住人とは限らない。付近に高い建物が他にないので、確実に死にたい人が引き寄せられてしまうのだ。同級生には落ちる瞬間を目撃してしまい、ひどいショックを受けた子もいる。
マンションは思ったよりさびれていなかった。ペンキは塗り替えられ、床も張り替えられてつやつやしていた。各戸の扉の真新しさから薄々いやな予感がしていたけれど、やはり実家の錠に私の持ってきた古い鍵は挿さらなかった。無駄足だった。しばらく立ち尽くしていたが、廊下に知っている人が出てきたりすると嫌なのでまた階段を降りて敷地を離れた。帰りはより人の少ない裏の公園を通った。遊具も道も何もかもが小さく狭かった。ずっと夢の中にいるみたいだった。