昨日確定申告チャレンジにリベンジするため、朝のうちに税務署へ。身分証明書のコピーもできていなかったので途中でコンビニに立ち寄り、バスの中で糊で貼り付けた。税務署にたどり着くと他にも建物に入っていく人が何人かいた。覚悟していたほど混んではおらずむしろガラガラだった。建物の中は動線が2つに分かれていて、それぞれのルートに「提出のみ」と「これから作成」の札がかけられている。係員さんの指示で前の人と私は「提出のみ」に進んだのだが、後ろの人は「これからです」と整理券をもらっていて、おおっと思った。確定申告書類の提出期限当日に今から作成するとは、やるな。私はギリギリになった上昨日提出に失敗して落ち込んでいたが、上には上がいるものだ。もしかしたら事業ではなく医療費控除の関係かもしれないけど。提出窓口の人はやさしく、かつさっさと手続きを済ませてくれた。最後に来年から少し手続きが変わりますと言って何やら紙をくれた。提出書類の控えにハンコがもらえなくなる、というだけのことらしいけど、なんだかデジタル化の波がいよいよ迫っている気がする。観念してe-Taxを導入するしかないのかもしれない。でも、家からやれるとなったらいよいよギリギリまで提出を先延ばしにしそうだ。あらゆる公募作品を締め切りの10秒前に送信している私だから間違いない。
河原町で同居人と待ち合わせて夙川の西宮市大谷記念美術館へ。「須田国太郎の芸術―三つのまなざし―」を見に行った。まったく知らない画家だったけれど、同居人が好きなのだと言ってスマホで見せてくれた鵜や黒犬の絵が妙に良くて、それでついていくことにしたのだった。「東洋と西洋の絵画の綜合」をテーマにしていたという須田国太郎は1891年に京都の呉服屋の息子として生まれ、28歳でヨーロッパへ留学した。美学や美術史など研究のためという名目だったが、本人は若い頃から画家を志していたようだ。4年間諸国を渡り歩いたのち帰国するが、若い頃よりも40歳を越えてからの絵の方が素人目に見ても素晴らしくオリジナリティがあり、30代半ばを過ぎた自分としても見ていて元気が出た。
風景画、生物画、人物画、動物画といろいろな作品を遺しているが、人物画の顔がなんだか茫漠として、目が黒く塗りつぶされていたりするのに親しみをおぼえる。たとえば牛と人が農作業をしている「水田」では、風景や太陽に光る黒牛の背のグラデーションは細かく書き込まれているのに、人間の顔のみならず牛の顔までもが簡略化されのっぺりと塗りつぶされているのだ。もっとも近しい人間の一人であろう妻を描いた婦人像ですら、目ははっきり描かれているもののどこかぼんやり霞んでいる。若い頃の模写や習作を除いて展示作品の中でもっとも人物に焦点が当たっていると感じたのは仏像の修理師を描いた「修理師」だが、これは後ろ姿だし、生涯を通じて愛好した能を題材にした「野宮」「大原御幸」はいずれも力作で、女性の登場人物の儚さや無常を感じて眺めているとじーんとしたけれど、この2つで人物は能面を被っている。徹底的に目が合わないな、というのが印象に残った。この人はこんなに世界を見つめているのに、決して視線を受け取ろうとしない。
京都市動物園の近くに居を構えるほど動物が好きだったそうで、実際に魅力的な動物画をいくつも描いている。人間の顔を描くのは好きそうでなく、かといって動物を愛しげに描いているわけでもないというのが、また面白いところだ。「海亀」は水面に少し出た甲羅が生み出す水流の白い点々が動的で印象に残るが、ここでも顔は暗く沈んで目がどこなのだかわからない。黒犬やヤマアラシなどは黒黒とした体にぽっと灯るような赤い瞳をしていて、背景の色彩が明るいだけに余計得体のしれなさや畏怖の念を感じる。風景と能と動物と、これらに共通して感じるのは張り詰めた無心さだ。ロビーで上映されていた御子息による思い出語りでは「絵を描く時はいつでも背広にネクタイで、夜を徹して正座のまま絵を描いていた。それが自分なりの集中できる方法なのだと言っていた。じっと絵筆を構えたまま荒く息をついて身もだえるようだったので、心配でどうしたのと声をかけたら、集中を乱すなとひどく怒られた」という逸話が語られていて、安易な考えかもしれないけれど、画家自身がこの無心さと一体になろうとしていたのではないかと想像した。
絶筆は70歳で描いた「めろんと西瓜」。「東西絵画の綜合」をテーマに生涯絵を描き続けた画家の絶筆がメロンとスイカという、和洋果物の盛り合わせなのはちょっとすごすぎる。お見舞いの品なのか、1つのかごに2つの果物が盛られている。画面は明るいけれども、さすがに体力が持たないのか、描き込みは粗い。そしてメロンに比べて西瓜がいくぶん小ぶりであることがなんだか気にかかる。