オオサンショウウオが春の町を散歩していると、角におじいさんが立っていました。
「チョコレートあげるよ。おいしいチョコレートをどうぞ」
そういってみんなにチョコレートを配っているのです。ただでチョコレートをもらえるなんて! オオサンショウウオもさっそく列に並んで、つやつやした赤い包み紙に包んだ大きなチョコレートをもらいました。
「チョコレートうれしいな。うちに帰って食べるんだ」
オオサンショウウオはチョコレートを大事に抱えて家への道を歩きました。なんだか胸がうれしくてぽかぽかします。 うちに帰ったオオサンショウウオは、さっそくお茶をいれることにしました。けれどいざチョコレートを食べようとすると、包み紙をつまんだ手が止まりました。
「こんなにおいしそうなチョコレート、すぐ食べてしまうのはもったいないかもしれないな。食べるのは、明日にしよう」
オオサンショウウオはぴかぴか光る赤い包みをうっとり眺めながらお茶を飲みました。
次の日、オオサンショウウオはコップにサイダーをくみました。
「今日こそチョコレートをいただこうかな」
口の中で甘く溶けるチョコレートのことを考えてオオサンショウウオは喉をふるわせました。けれど、いざ包みを開けようとすると、また手が止まりました。
「チョコレートを食べたいけれど、今日じゃない気がするな。もっといい日があるんじゃないかな」
オオサンショウウオはまたチョコレートを食べるのをやめました。 次の日もその次の日もオオサンショウウオはチョコレートを食べませんでした。包みを開けようとするたび、もっとふさわしい日があるように思えるのです。 春が去り、初夏が来て、梅雨になりました。そして夏になると、オオサンショウウオはちょっと心配になってきました。
「チョコレート、暑さで腐っちゃったんじゃないかしら?」
包み紙の上からつついてみると、少し柔らかくなってはいますが、平気なようです。オオサンショウウオは胸をなでおろしました。しかしここまで大事に取っておいたチョコレートともなると、この世にまたとない宝物に思えてきました。食べる日を決めるのはいよいよ大変です。
「何か人生がひっくり返るような出来事があった時に、記念にこのチョコレートを食べることにしよう」
オオサンショウウオはそう心に決めて、拾った瓶にチョコレートをそっと移しました。そして最近、ねずみの泥棒が町を騒がせていることを思い出して、部屋の高い棚の上にしまいました。「これで安心」とオオサンショウウオは思いました。
夏の暑さが弱まり、木々の葉っぱが赤や黄色に変わって、やがて全部吹き飛んでしまうと厳しく寒い冬になりました。 オオサンショウウオは棚の上の瓶のことを思い出しました。
「そういえばチョコレート、だめになってないかしら」
オオサンショウウオは瓶を下ろしてチョコレートを取り出し、そうっと慎重に包み紙の端っこを持ち上げました。 茶色いチョコレートがちょっぴり見えました。粉は吹いていないし、甘くていい匂いがするし、表面もつややかです。オオサンショウウオは安心して元の場所に戻しました。
「まだ大丈夫だな。でも、そろそろ人生がひっくり返るようなすごいことが起きないかなあ。この際、いいことでも、悪いことでも、いいんだけどなあ」
けれども寒い寒い冬でした。ちっとも動きたくならずに、ただ家の中でうとうとしているばかりで日は過ぎ去っていきました。
ある日オオサンショウウオが長い昼寝から目を覚ますと、なんだか体がそわそわしていることに気が付きました。
「これは、何かすごいことが起きたのかもしれないぞ」
まだ重い体を引きずるようにして、ずいぶん久しぶりに家の外へ出ました。そしてのっそりのっそり歩いていきました。
町で大事件が起きたのかしら? どこかで泉が吹き出したとか? 寝ている間に、サーカスがやってきたのかもしれないぞ。 しかしどれだけ町を歩いても変わったものはありませんでした。町はいつもと同じです。ただ日差しはいくぶんかあたたかく、あちこちで木や草がちっちゃな緑の芽を伸ばしていました。
「なんだか気持ちがいいや。そうか、やっと春になるんだな」
オオサンショウウオはしみじみ嬉しくなって帰りの道を歩き出しました。
「そうだ、今日こそあのチョコレートを食べよう。人生がひっくり返るようなすごいことは起きなかったけれど、なんだか今日は気分がいいもの」
そうして家に帰り着きました。扉を開けると、何か様子が変なのに気が付きました。窓が割れています。机の物が倒れて床に落っこちています。引き出しはてんでばらばらに開いて中身がはみだしています。
「あっ、これは、泥棒が入ったんだ」とオオサンショウウオは気が付きました。町で噂になっているというねずみの泥棒に違いありません。
お気に入りだった緑の石も、壁にかけていた流木も、指が四本あるオオサンショウウオ用手袋も、大事にしていたものはみんななくなっていました。 オオサンショウウオはおん、おんと泣きました。そしてはっとして棚の上を確かめると、大事なチョコレートも瓶ごとなくなっていました。オオサンショウウオはなおも涙を流しました。
「チョコレートも盗まれちゃった。人生を変えるようなすごいことがとうとう起きたのに、チョコレートはもうないんだ。おん、おん、おん」
泣き疲れてその日は眠り、目が覚めると次の日の昼になっていました。オオサンショウウオは荒れ果てた家を見て、夢でなかったことにがっくりしながら、気晴らしに散歩へ出かけました。すると、町角に人だかりができていました。その真ん中にいる人に、オオサンショウウオは見覚えがありました。
「おや、あれはチョコレートをくれたおじいさんじゃないか!」
オオサンショウウオは喜んで、そっちに歩いていきました。一年が経って春になって、おじいさんがまたチョコレートを配っているのかもしれません。けれども近づいてみると、なんだかおかしな雰囲気です。おじいさんを取り囲んでいるひとたちがみんな怖い顔をしています。おじいさんは時々小突かれたり、襟首を掴まれたりしています。
「あんた、チョコレートにおかしなものを混ぜただろう。うちの子がひどくお腹を壊して寝込んじまったよ」
「うちの子は吐き気がひどくておかゆも食べられないんだぞ」
「見ろ、この腕のいぼいぼを。どうしてくれるんだ」
おじいさんは背中を丸めて、困った顔で答えました。
「ちがうよ、ちがうよ。わたしはただ特製チョコレートの試作品を配っていただけなんだよ」
その言い訳に人々はかえって怒りをかきたてられたのか、怒鳴り声をあげ、おじいさんを押したり髪を引っ張ったりしはじめました。
「あのおじいさん、やばいおじいさんだったのか」
オオサンショウウオはあっけに取られて騒ぎを眺めていました。 と、人々に混じっておじいさんの足元におかしな動物がいることに気が付きました。その生き物は獣のようなのに、みにくいピンク色の肌をして、毛が一本もありません。涙をこぼしながら、ふたつの拳で力なくおじいさんを叩いています。身体に対して耳がみっともないほど大きく、おしりからは紐のような長いしっぽが垂れています。
「あっ、あの変な生き物は、ねずみだ。ねずみの泥棒だ」
オオサンショウウオは盗まれたチョコレートがどうなって、そのために何が起こったのか、すっかり見抜いてしまいました。そしてねずみを捕まえてこらしめようかと立ったままずいぶん悩んでいました。
やがてオオサンショウウオは向きを変えると、騒ぎを背中に聞きながら歩き始めました。そして何も起こらない荒れ果てた我が家へ、ゆっくり帰っていきました。
これは、同居人と飲むために淹れたお茶が熱すぎて冷めるのを待っている間に、「じゃあ、お話してあげるね」と言って、ぬいぐるみのオオサンショウウオが即興で語ったお話です。