生活史調査で2回目の取材をやった。2時間弱話を聞いて、地域の知らなかった話がざくざく出てくることに驚いた。まあ、数年ぽっちしか住んでいないので無理もないのだが、数十年住んでいる人はやや眉をしかめるような話も含め、本当によく知っている。そして人の話はたくさんの人の名前が登場するもので、話を聞いてみたい人がぞくぞくと増える。取材は楽しいがここからの作業が本番で、まだ第1回取材の文字起こしも半分程度しか進んでいない。あんまり溜め込むのも良くないので一旦ここで取材はストップかな。
ライフログをしばらくつけてみて、自分が思っていた以上に動画とゲームとインターネットに時間を注ぎ込んでいることがわかったので、スマホについているデジタルウェルビーイング(なんかいやな概念)の機能でスクリーンタイムに制限をかけたのだが、たった半月ほどそうしただけでSNSの話題にうとくなっているのを感じた。暴力と破滅の運び手さんが幻想と怪奇のショート・ショート・カーニヴァルに投稿するつもりで2万字近い短編を書き上げて公開したのも、稲田一声さんが創元SF短編賞を受賞されたのも遅れて知った。ひょー!すごい。おめでとうございます。早よ読みたいね。遅れたといっても数時間のことなのだが、以前ならリアルタイムで把握していたようなことなのでなんだか不思議な感じだ。運び手さんの短編はこちら。
面白い。一見するとおっとりしていそうなハリーの、どうにも食えない感じと主人公の振り回されぶりがめちゃくちゃいい。運び手さんの小説やっぱりいいなあ。
知っている人がどんどん面白い小説を書いて、しかも実績を残しているのに比べると、自分のここ数年のド派手なつまずきっぷり(おもに長編、あと仕事)を考えると焦るような気持ちがある。が、人よりは鈍感な方であると思う。それは多分幸いなことだ。中学受験に失敗した頃はむしろそのことで苦しんでいて、今思うとかなり心身に問題を抱えた小学生だったと思うのだが、いつしか就職活動がまったくうまく行かなくても平気でぼけっとしている大学生になってしまった。なんで?もうちょっと焦った方がいい。子どもの頃に疲弊しすぎて回路が壊れちゃったのかも。今苦しさの大部分は、自分という巨大ロボがうまく操縦できないところに起因している。全然言うことを聞いてくれない。だが、これはある程度医療とフレームワークでなんとかなるんじゃないのかなと最近思うようになった。ならばまだ戦いようはあるということだ。普通の人の普通の活動をするために50倍くらい工夫しないといけないのはトホホだぜと思わなくもないけど、まあそういうことである。