用事で実家に戻ったので、ペースが乱れて日記を書くのが夕方になっちゃった。せっかく習慣がついてきているのによくないですね。
昨日は仕事でとある劇場にいて、そこでちょっとした出来事があった。私は撮影係として会が催されている最中もホールを自由に歩き回っていた。発表者がいてコメンテーターがいる、ある種の大会のようなものを想像してほしい。その時私は二階席にいて、ステージ上にカメラを向けていた。来賓席に座ったコメンテーターたちの一人が発表者に質問していたが、途中で言葉がぴたりと止んだ。そして発表者の方ではなく、隣席をいぶかしそうに眺めた。隣には80歳を越える高齢の男性が座っていたが、居眠りでもしているみたいに首を傾げている。二階席からでもそこだけはっきりと浮き上がって見えるほど、肌の色が悪かった。土気色だ。運営の一人が近づいて老人の肩を揺すぶったが反応がない。異様な空気が静かな会場に伝播していくのがわかった。どうすればいいんだっけ?と思った。こういう時、まずどうすればいいんだっけ?とりあえず走り出してホールの扉を押し開け、外に出た。何もわからないけどもしかしたら必要になるかもしれない。ここは立派な劇場だから、絶対に準備されているはず。そう思いながら小走りで階段を降りると、まさしくすぐそこの壁に赤い箱が取り付けられていた。取っ手に手をかけるとピーッとけたたましいアラームが鳴ってあっけなく開いた。町中でよく見かける箱の中に、本当にAEDが準備されていたことに不思議な実感をおぼえた。AEDの赤いバッグとタオルを取り出し、走って会場に戻ると、老人は両脇を支えられながらホールを歩いて出ていくところだった。あ、よかった、意識はあるみたいだ。一人の女性が付き添ってその人をてきぱきとソファに寝かせ、脈をとり、持病や服薬についての情報を聞き出した。あとからわかったがその女の人は観客で看護師をしているそうだった。おじいさんは突然全身が痙攣して一時気を失ったらしく、ぐっしょり冷や汗をかいていた。誰かの呼んだ救急車があっという間に到着し、大事をとって搬送されていった。
結果的にAEDは不要で、会はまもなく再開され、私は仕事に戻った。帰りに劇場の壁を見ると、さっき取り出したAEDはもうちゃんと元に戻してあった。命に別状なかったから呑気にこんなことを思うのかもしれないが、AEDを求めてホールを走り出した時、そして赤いバッグを抱えて戻る時、私の頭は一切の雑念がなく、静かで澄み渡っていた。一つの目的だけを考え集中していた。不謹慎な言い方が許されるならば幸福だったと言ってもいい。たとえAEDが「念の為」程度の役にしか立たなかったとしてもだ。一日一日をこんなふうに過ごせたらどんなにいいだろう。看護師の女性が老人に神経を集中させている姿にも尊敬の念と格好よさを感じた。しかし私の仕事は文章を書くことであって、命の危機に瀕した人を助けることではない。注意力の散漫な人間は、直接的に人の生命に関わる仕事をすべきではない(文章は悪く使えば効率的に人を殺せるが、それはまた少し違ったレベルの話である)。だからまたあんなふうになろうと思ったら、自分の仕事に自在に没頭する術を見つけるしかない。今の私は偶然頼りでしかそれができない。
施川ユウキの『バーナード嬢曰く。』7巻を読んだ。大学時代から追っている漫画なので続刊が出て嬉しい。施川ユウキの絵のうまさって一体なんなんだろう?ということを、施川ユウキの漫画を読んでいる間はずっと考えている。かなりデフォルメされているし線はガタガタしているのに、髪の1本、横顔に描かれた唇、手指の表情がすごく生っぽくてハッとすることが度々ある。キャラクターの中でも神林に特にそれを感じて、時々これもう実写じゃん、とすら思う。施川ユウキは「実写のような絵を描く」のではなく「読者の脳の中で実写になる絵を描く」のがうまいのだ。絵の細部だけではなくて、コマ割りから生まれる会話の呼吸や、コマに対して占める人物の大きさや距離感が絶妙だからではないかとも感じるが、漫画については素人なので直感の域を出ない。というかなんなんだろう、絵がうまいとか下手だとかって?