順調に生活リズムが崩れており、この日は10時半まで寝ていた。なんぼ寝ても眠くてたまらん。夜ふかし気味だったとはいえ9時間近くは余裕で眠っているのに、まだ昼寝できそうなポテンシャルを秘めている。世界的に見て短めだという日本人の平均睡眠時間を一人で盛り返そうとしているかのようだ。
エアロバイク漕ぎつつ映画鑑賞、を始めて数日経ち、『マルセル 靴をはいた小さな貝』を観終わった。変な映画だ。でもすごくまっとうな映画だ。ドキュメンタリーとストップモーションアニメーションの手法がミックスされており、失踪した家族という問題を抱えたマルセルがおり、冒険に一歩踏み出せない頑固な臆病さという真の問題があり、常に撮影者側に回って自分の心を見せようとしないディーンのサブテキストがある。単眼で貝殻から直接2本足が生えてる生き物って果たして貝なのか(頭足人の亜種?)という当然の疑問はマルセルの生活がYouTubeで全世界に公開されてもまったく解消されない。かと思えば家族を捜索するための必死の呼びかけを浅く消費されたマルセルの「この人たちはただの視聴者だ。コミュニティじゃない」という鋭いソーシャルメディア批評が展開されたりする。
同居人と『宇治拾遺物語』を一日に数話読む習慣が続いていて、これは厳密にはこの日読んだのではないのだけれど、「猟師、仏を射る事」という話が面白かった。ある猟師は懇意にしている聖がいて、時々物をあげたりしていたが、久々に訪ねると聖が「最近信仰の甲斐あってか、夜普賢菩薩が白象に乗って現れるようにあった。あなたもぜひ今晩泊まって拝んでいきなさい」と言う。猟師は従いつつも訝しく思って、聖の使用人の少年に「お前も見たことがあるのか」と訊くと「5,6度は見ました」という。果たして夜になり、堂の中に秋の美しい月光が差し込んでくると同時に白象に乗った普賢菩薩が現れる。聖は泣き伏して拝み、猟師もその姿を目の当たりにするが、「長年信仰してきた聖はともかく、経の読み方もわからぬ自分や少年に見えているのはおかしい」と思って試しに弓矢で射てみると普賢菩薩はぱっと消えてしまう。慌てふためく聖に「自分のような罪深い者にも姿が見えるのはおかしいと思って、本物なら射られることはないだろうから試しに射たのです」と説明し、血の跡をたどっていくと、少し行った谷底に大きな狸が血を流して死んでいた、という話である。話末は「聖なれど、無知なれば、かやうに化かされけるなり。猟師なれど、おもんばかりありければ、狸を射殺し、その化けをあらはしけるなり。」と結ばれる。 いろいろ感想を言う中で「聖と猟師の取り合わせは、TRICKの山田と上田コンビと同じ構図ではないか」という指摘が出た。物理学者で大学教授で頭が良いはずの上田はいつもあっさり超能力の存在を信じそうになり、貧乏で地位もない奇術師の山田がその種を暴くのだ。面白い関係性はやっぱり古典に例があるものである。ウィキペディア情報だがインドの民話にも類話があるほか、ミヒャエル・エンデが『満月の夜の伝説』で同様の筋書きで絵本を描いているらしい。
夜は友人に誘われて初めてバーに行った。アルコールが苦手なことを伝えてアルコール控えめなものを教えてもらい、フロンティアというカクテルを飲んだ。おいしかった。店に入る前に友人が「様式美なのは理解できるんだけど、バーテンさんのきれいで大げさな所作がいちいちツボにはまって笑い出しそうになる」と言っていたのだが、たしかにうっかりすると笑ってしまいそうで危なかった。ディズニーランドを楽しむタイプの没入力が必要だ。私はバーに一度も行ったことがなくて、知っているバーと言えばアプリの脱出ゲームに出てくる3DCGのバーばかりなので、お店が美しければ美しいほどBlenderで作った効果みたいに見えておかしかった。