メンタルクリニックで知能検査(WAIS-Ⅳ)の結果を聞いてきた。数字を細かく書くことはしないが、総合IQは自分でもこのくらいかなと思っている範疇に収まっていた。公認心理士さんにあれこれとレクチャーを受ける。知能が高い低いよりも、言語理解、知覚推理、ワーキングメモリ、処理速度の4つの指標にどれだけの差異があるかが大事なのだという。各項目のIQに15以上の差があると「ディスクレパンシーがある」といって、要は発達にデコボコがあるとみなされるのだそうだ。私は言語理解だけが飛び抜けて高く、一番低い項目とは30以上も差があって、そのディスクレパンシーがすぐに頭がいっぱいになったり、考えるばかりでいっこうに作業が進まないなどの困難やもどかしさにつながっている可能性がある、ということだった。正直に言って結果に大きな驚きはなかったが、それでも得意不得意がはっきり数値として示されてようやく納得がいった。これまでの心理検査はアンケートのような質問項目に答えるもので、もちろん正直に回答はしたがなんとでも言えるという煮えきれなさを感じていたところ、答えを取り繕えないテストの結果が出たはいくぶんか頼もしい。といっても、知能検査で診断が下るわけではないということだったけれども。
Audibleでヴィクトール・フランクル『夜と霧 新版』を聴いた。ナチスによって強制収容所での生活を余儀なくされた精神科医が、人間性を破壊する収容所生活の様子を事細かに描写し、人々の振る舞いや変化、人生の意味などを説いている。過酷な実体験を経て得られた、ヒューマニズムの実践をテーマにしたものすごい本で、最近読んだ中では一番おもしろかった。心が痛んだのは「第三段階:収容所からの解放」で紹介されるエピソードだ。解放されて収容所仲間だった友人と二人で外へ出かけていた時、麦畑の若芽を友人がわざと踏んで歩いた、それを咎めたら友人は激昂して、「おれは妻も子も殺されたというのに、麦の芽を踏んだだけのことで咎められるのか」と言うのだ。世界に絶望しきった人の聞くだにつらい言葉である。作者は「不正を働く権利のある者などいない。たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだ」と強調するのだが、この言葉がもっと深く根付いていたら、というよりも世界的な名著として知られているにも関わらず、今パレスチナであのようなことが起きているのは胸が塞がるような思いがする。そして人はどれだけひどい理不尽な環境にあっても、人間性を捨てないでいることはできる、人生は抗いがたい運命を誇りをもって苦しみつくすところに真価がある、という考え方に強い敬意をおぼえたものの、それはやはり過酷な環境を生き抜いた人だけが口にできる言葉であって、今の私にとても背負い切れるものではないなとも思った。