あまり元気がなく失速気味の日だった。前日は午前が遠方での仕事に長い移動時間、夜は犬街ラジオがあってハードな日ではあったが、こんなに朝から疲れていると少々落ち込んでしまう。あ、でも今思い出したけど、水曜は2時半に目が覚めちゃって朝まで仕事した後出かけたんだったわ。そら疲れるわという気もする。10時くらいにイヤイヤ起き出し、午前中終わらせるはずの仕事をサボりサボり目をそらしながらやり、そのせいで午後の鍼灸院に10分ほど遅刻した。良くなってきていますね、と言われ、同意したが、鍼のおかげか最近暖かいからかはわからない。
午後はそのままどこかに入って作業をしようとノートPCをかついで来たのだが、雨が降っていて図書館に本を返しにいったら外に出るのが億劫になってしまった。児童書コーナーにあった『一年一組せんせいあのね―詩とカメラの学級ドキュメント』を読んだ。
『一年一組せんせいあのね―詩とカメラの学級ドキュメント』は神戸市の小学校で教員の鹿島和夫さんが小学一年生の子どもたちと取り組んだ「あのね帳」から生まれた詩を抜粋したものだ。昔、家に『一組一組せんせいあのね いまも』という、おそらく続編のような立ち位置の詩集があり、繰り返し読んだものだった。谷川俊太郎や川崎洋、まどみちおなどの詩集とまったく並列に愛読していた。子どもの目から見ても子どもの詩はとても面白かった。「いまも」と比べるとこちらの本には、ユーモアと批評精神たっぷりの詩を中心に構成しながらも、過酷な現実を生きている子どもたちの飲み込みづらい熱い塊のような詩がそれとなく配置されている。両親が他の兄弟を連れていなくなってしまった子どもの「ぼくだけほっとかれたんや」(あおやまたかし)、山火事を目撃した一ヶ月後、思いがけず自宅が全焼してしまった「山かじ」「かじ」(よしはらきよみ)、他にも早逝した父の写真に話しかける家族や、障害のある同級生との関わりを読んだ詩があった。メモを忘れてしまったが、母のお腹の中を幻想的に描いた詩もものすごかった。
なんとか図書館を出たもののその時点で夕方になっていてだるくなり、そのままコンビニで買い物してベッドでポテチを食べてだらだらした。でも久々にロボット掃除機で床を掃除したので引き分けということにしてほしい。
夕飯を食べながら『83歳の優しいスパイ』を冒頭30分だけ観た。「80~90歳限定」という探偵事務所の奇妙な求人に応募した老人・セルヒオが、入所者虐待疑惑のある老人ホームに潜入して真相を掴むべく働くというドキュメンタリー?である。春の優しい光を受けるホームの映像や人好きするセルヒオの振る舞い、いつまでも母の迎えを待っている入所者の哀切な訴えなど見どころがたくさんあって今のところ面白く観ている、のだが、このドキュメンタリー?というのがよくわからない。第93回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門にノミネートされたというからドキュメンタリーなのだろうが、冒頭ではセルヒオが「これこれこういう求人を見ましてね…」などと説明する場面があったり、きれいな構図にバチッと人物がハマっていてあまりにも映画的だったりして、あまりドキュメンタリーに見えない。セルヒオがスパイらしくメガネ型やペン型の小型カメラを持って潜入すると同時に、カメラは堂々とホームにも入り込んでいる。機材を持った髭もじゃのカメラマンが映ったあと「あれは映画の撮影をやってるんだよ」と入所者が話すシーンがあって、ホームの運営側と話はついているっぽい。しかし「作品の意図を何もかも話してある」のか「穏当な映画と偽って、虐待疑惑の究明という真の目的を隠している」のか明確にされないので、ずっとちょっとした気持ち悪さが続いている。今の解釈は「この映画の主眼は疑惑の究明ではなく老人ホームで暮らす人々の悲喜こもごもを内部から映し取ることにあり、制作者とホームはばっちりグルで、知らないのは入所者たちだけ」というものなのだが、それが本当だったら、うーん…イヤかも!なぜかというと、入所者たちだけに嘘をついているからである。しかもそれは、入所者が出奔しないように敷地内に偽のバス停を置いたり(これは映画には登場しない別のホームの事例)、母を恋しがって泣く入所者に職員が「お母さんですよ、あなたに会えなくて寂しい」と母を騙って電話をしたりするような、入所者が施設で平穏な生活を送るためにつくぎりぎり善行といえるかどうかの嘘ではなくて、「老人ホームで余生を過ごす人たちの実際を見たい」という鑑賞者側の欲望を成立させるための嘘だからだ。この嫌な予感が的中しないことを願っている。
今日は子どもと老人の集団生活に根ざした作品を見た日だった。甘いもの食べたからしょっぱいもの、的な反動だったかもしれない。