佐々木敦著、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』を読んだ。坂本龍一の評伝というわけではなく、歴史を逐一追った資料でもなく、だがそのどちらをも含んだような、坂本龍一という人を批評する本。むしろ読んでいる時の感覚としては、「坂本龍一」という壮大な71年のアルバムのライナーノーツを読んでいるようだった。実際、各アルバムの楽曲について少しずつ説明もあり、それを読んだらどうしても音を聴いて再確認したくなる。結果的に、佐々木敦氏の船頭による船に乗って、共に音楽を聴きながら、それまで音の響きとメロディでしか捉えられなかった教授の、その内面、思考の構造の一端に少しずつ近づいていく、寄り添っていくような読書体験だった。そしてそれはどこかやさしい。坂本龍一というその気さくな人柄が文体を通して伝わってくるからなのか。作品が作られたその背景や葛藤を知ることで、坂本龍一という人の不完全さ、もどかしさ、その人間っぽさを感じるからだろうか。もう既に亡くなった人についてメモワール的に書き起こすことが前提とされた文章だからだろうか。そのやさしい手つきで氏の音楽を同時に聞き返すことで、坂本龍一という存在が内面化されていく。話したこともない人をそのように感じてしまうのは危ないことだろうか。どんなに内面化したところで、あの人のように美しい音楽を生み出すことも、ピアノを弾くことも、烈火の如く仕事をこなすことも、活動家として社会的コミットをすることもできない。だが、一つの確固たる「指標」がそこに植え付けられる。生き方のしるし。向かうべきところ。人の生き方に「べき」なんてものは本来ない。だが、無いままではどこにも行けない。人は自ら「べき」を生み出すしかない。しかし同時に、その「べき」から自由でもあるべきだ。この二律背反のようなテーゼそれ自体もまた、坂本龍一という人の生き様には組み込まれていたとさえ思う。だから、坂本龍一を聴き、想うとき、そこには緊張感ある筋が一本まっすぐ張られているイメージが出てくるのに、同時に、あらゆる場所を見渡しどこに行ってもいいような、自由さと好奇心もまた感じるのだ。
この本が読み終わったので、半分くらいまで読んで止まっていた『ユリイカ 総特集 坂本龍一』を再び読み進めよう。と思っていたら、『坂本図書』まで届いてしまった(注文したからだ)。この本は読書家でもあった坂本龍一が選書した36冊の本と著者について、その思いとともに紹介してくれるコラムが纏められた本だ。きっとこれを読むことで、この中にある本もすぐ読みたくなるのだろう。そうして、坂本龍一とは関係ないはずの過去の人文学世界の海へも漕ぎ出すことができる。しかしどうせそこで、あらゆる思想や文字の端々に、教授の影響を感じてしまうのだ(それは時間軸的に言えば教授にとっての影響元でもあり、しかし読んでいる自分は教授側からの影響を強く感じながら読むという、何かしらの反響関係に包まれることだろう)。
寂しくて、幸福な反響空間は、まだまだしばらく続く。