2023年は坂本龍一に思いを馳せ、坂本龍一の音楽を聴き、坂本龍一の周りに居た人たちの話を聞き、坂本龍一の残したさまざまに触れ、そうして教授と呼ばれた男が、僕にとっての人生の教授に、本当になったんだということを、一年を通じて深く実感したようなそんな年になった。
以前、2023年に見に行った展示やライブを振り返る記事をしずかなインターネットで書きながら、本当にそうだったんだなとしみじみ、自ら理解できた。最後のアルバム『12』が2023年1月17日にリリースされて、その後の3月28日には亡くなられてしまった。それにより、緊急特番やら書籍、イベントを通じて通年、教授関連の何かがあったのだから、考えるなというほうが難しい状態ではあった。(1月11日には高橋幸宏氏が亡くなられていて、『12』の制作のきっかけのことも知っていた時点で、すでにそこに死の影がオーバーラップしていたことを、アルバムと切り離して考えられるかと言ったら嘘になる)
しかし、そんな教授のことをずっとファンとして昔から追い続けてきたかというと、とてもじゃないがそうは言えない。まだまだ、やっと少し分かってきた、という段階だった。なんてことを言うのさえおこがましいかもしれない。あまりにも天才で、あまりにも広大なお仕事をされていて、語り口が多すぎて、しかし手の届かないような偉大な音楽かというと実はとてもフレンドリーな気もして(話したこともないが)、だからつい教授について語りたくなってしまうけど、語るために掴もうとすると途端にするっと手の内からこぼれていく。絶対大きい存在のはずなのに、常に透明でもあったような印象。ずっと軽やかで、どこまでも重い。
自分が初めて買った教授のCDは、『CHASM』だ。もうこの時点で、坂本龍一のフォロワーとしてはだいぶ遅いというか、「世界のサカモト」が定着してからずっと後、エレクトロニカ以降の時代になってようやくちゃんと聴き始めたことが分かる。その前にも興味がなかったわけではないが、高校生とかだったこともあり、TSUTAYAでベスト盤の『US』『UF』『CM/TV』は確か、借りて聴いていたと思う。ただ結局そのベスト盤を聴いたところで、坂本龍一の真髄に触れられたかと言うと全然分かってなかったと思う。教授の音楽は、ベスト盤だけを流して聴いても、どちらかというとより軽さが目立ってしまう気がする。
そもそも自分にとってYMOの三人は、Sketch Show(細野晴臣&高橋幸宏)以降に詳しく知った存在だ。2000年代初頭のエレクトロニカに夢中だった人間として、その流れで「日本の電子音楽レジェンド的な人たちがなんかエレクトロニカっぽいことやってる」と知り、聴いてみたSketch Showの『AUDIO SPONGE』。そこから、エレクトロニカ要素とメランコリックな歌もの、ポップなのに深い音響、ユーモラスなのにアヴァンギャルドな雰囲気を感じ取って、その時初めて、YMOってこういうことを表現していたのかと、逆にその当時の最新の音を聴くことで遡って理解したという感覚があった。Sketch Showは2枚のアルバムを出して事実上活動を終えたので、その穴(LOOPHOLE?)を埋めるためにもYMOをそこから聴いていくことになるのだが、そんな時にリリースされたのが『CHASM』だった。Sketch Showも参加し(というか先に坂本龍一がSketch Showのアルバムに参加していたが)、当時大好きになっていたCorneliusも参加しているし、どうやらかなりグリッチーらしいということで、聴かないわけにはいかなかった。
CHASMの一曲目『undercooled』は、今でも大好きな一曲だ。もしかしたら一番好きと言ってしまうかもしれない。教授ヒストリーの中ではまぁ忘れ去られたとまでは言わないまでも、そこまで多く言及されることもないし、コンサートで披露されることもそんなに多くはなかったと思う(MC Sniperが居て成立する曲と考えていたのかもしれないし。でもいくつかのコンサートではピアノだけで披露もしているようだ)。それでもとにかく、このミニマルに繰り返されるシンプルで、まるで「東風的」とも言えるような、そのことに自覚的で、アジア人として自己言及することを狙ったようなとても東洋的なメロディ、そのシンセサイザーの音色と、グリッチに彩られたヒップホップのリズムが、自分の琴線を捉えて離さなかった。冷めながら熱い。悲しみながら怒っている。繰り返し聴いても聴いても聴き足りないような、そんな気持ちになったのは、坂本龍一の楽曲で初めてだった。
『CHASM』はアルバムとしては、バラエティ豊かだが散発的とも言えて、当時のエレクトロニカの流行も積極的に取り入れたそのフットワークの軽さで、ある意味"らしさ"がとても出ているポップなアルバムと言えるが、ファンの間などではそこまで評価は高くない位置にあると思う。それでも僕にとってはとても思い入れのある一枚だ。だがその後に出てくる『out of noise』を聴いて、完全に坂本龍一に感服することになるわけだが・・・。
並行して、教授の過去のアルバムとしっかり向き直していくということを進めてもいた。やはりベストアルバムでは何も分からないなとなり、『千のナイフ』『B2-UNIT』『音楽図鑑』と、初期作品を、YMOなどとも並行しつつ、当時リアルタイムで聴いていた人たちの気持ちをシミュレーションしながら聴き進めていく。千のナイフは1978年のデビューアルバムとは思えぬ完成度と、表題曲の比類なき強固なメロディにやはり何度も驚くし、B2-UNITはいきなりその2年後にマスターピースとなるような電子音楽アルバムを出してしまっていて更に驚く。すべて、自分が生まれる前に!『Esperanto』をやっと中古CD屋で見つけたときは本当に嬉しかった。
再び2000年代に戻る。CHASM辺りから、alva notoとのコラボレーション・アルバムがリリースされる。自分にとっては、ここから始まる教授の、サイドプロジェクトとも言えるエレクトロニカ系アーティストとの怒涛のコラボレーションこそが、坂本龍一という輪郭を自分の中で形作ったと言える。alva notoと作った『insen』は坂本龍一ディスコグラフィーの中でベストに挙げてもいいくらいだし、その後もFennesz、Christopher Willits、Taylor Deupreeと立て続けにコラボアルバムをリリースすることで、それぞれのサウンドのテクスチャは異なりながらも、その中から無二の「坂本龍一のピアノの息遣い」が浮かび上がってくる。電子音の霧の中から、あるいは絡み合い、距離を取り、漂いながら、未知の響きへと漕ぎ出そうとする旅路。それは即興的でもありながら、自由なようでありながら、坂本龍一という人間の中へさらに潜り込んでいくようでもあって。そういえば即興とコラボレーションという意味では、ototoyでの販売のみでCDにもサブスクにもなっていないが『坂本龍一 NHK session』も重要だったと思う。
そうしたコラボレーションを経て、というか同時並行的に、コラボで指向された電子音響的なスタイルを教授のソロプロジェクトとして咀嚼、消化し、一人で全て描ききったのが『out of noise』だと思う。本当に美しい作品。そしてそういう意味でもとてもオープンな作品だと思った。内省的な音楽のようでいて、多くのコラボレーションや即興に、また北極圏への旅にもインスピレーションを得ていて、開かれた清冽さがあるように聴こえる。この時には僕はもう、坂本龍一を同時代に生きる他の電子音楽アーティストと同等の存在のように捉えていた(と書くとむしろ教授のそれまでの功績を小さく見ているようだし、アーティスト側からしても同等なんてとんでもないとなりそうだが…底しれぬ遠い存在でもいい偉大な方が、こんなにも現代の音の感性とシンクロしながら、そしてそれを肯定しながら、僕らの耳に馴染みやすく美しい音楽を残してくれる、その事に世代の壁を忘却して感動している、ということだ…)。
そして『async』。架空のタルコフスキー映画のイメージというコンセプトを持った、最高傑作。これまで、教授のアルバムにはどこか「軽さ」を感じていた。それは現代音楽的な素養を持ちながらも、その界隈からは逃走し、まるで気さくな人柄そのものが親しみやすさとして音楽面にも反映されていたような、ずっしり感のなさ。だけど、asyncではついにそこからも超越した領域に辿り着いたように聴こえた。重苦しいわけでもない、あえて言うなら神々しさが宿ったような、非重力、非同期、すべてから離れ、そして全てに繋がるような音世界。
asyncの一曲目『andata』は、ここにきて、千のナイフ、戦場のメリークリスマス、ラストエンペラー、aquaなどに続く名曲を生み出してしまったと思った。普段坂本龍一をとくに聴いていたわけでもない叔母が、この曲を聴いてすぐにこの曲だけをiTunes Storeで買い、繰り返し聴いているという。どこか教会で鳴るような普遍的なメロディに、短いながらも完璧な構成、完璧なシンセの音が被さる。僕はこのアルバムを、この曲を聴いて、逆にやっと、坂本龍一のコンサートで奏でられるような、ピアノの旋律が美しい曲たちを、本当の意味で心に受け入れるこのできる扉が開いたような気がした。それまでは、エレクトロニカ以降から聴いたこともあって、音響的・アンビエント的な坂本龍一ワークスばかりに偏って愛聴していた。映画音楽的な面も聴いてはいたけれど、本質的に愛していたとは言えなかった。asyncによって(坂本龍一が唯一作った"映画"によって?)、全てが取っ払われたような気がした。もちろん"理解"できたなんて浅学の自分にはとてもじゃないけど言えない。それでも、坂本龍一の指先から生み出されるその全て、メロディ、即興、シンセサイザー、音響的操作には、もう何も違いはなく一人の驚異的にエネルギッシュな人間から、一本の筋を持って愛しく創造されているのだということが、やっと体感として、ただのリスナーとして、全部を見通せる場所に立たせてもらったという感があった。
そうして、今はまた遡って『THREE』を聴いている。ピアノ、ヴァイオリン、チェロというトリオによる名曲たち。これもまた最高傑作の一つ・・・最高傑作が一体何枚出てくるのだろう?
2023年4月2日、東京オペラシティ コンサートホール(タケミツメモリアル)で蓮沼執太フィルのコンサートを観た。ゲストには小山田圭吾。そして、その余韻も冷めやらぬまさにその夜に、Twitterのタイムラインに流れてきた坂本龍一の訃報。目を疑ったあの瞬間のことが忘れられない。その日の感情の起伏そのものまでもが。昨年12月に臨時刊行された「ユリイカ 坂本龍一」を読んでいたら、まさにその日のことを蓮沼執太さんが美しい筆致で振り返っていた。コンサートでは坂本龍一を観てきたわけではないのに、あのステージに居た人たちは坂本龍一との交流も厚い人たちではあった。安直ではあるが、坂本龍一、YMOチルドレンと呼べる圏内。その日体感してきた音楽、環境と心理、記憶が、様々な感情と交錯する。あまりにもな日。そして、音楽はこうやって繋がっていくということを、はっきりと示された日。
今日、2024年4月28日、さっき、本屋で佐々木敦『「教授」と呼ばれた男』を買ってきた。そして、明日は109シネマズプレミアム新宿で『opus』を観に行く予定だ。本当に最後の教授のコンサートであり、作品。楽しみだ。悲しいかもしれないけれど、やっぱり楽しみだ。自身の死を前にして、最期となるであろうコンサートを分割収録でやりきって残そうとする意思。体調が悪くてもインタビュー形式による自伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を書き残そうとする意思。末期に神宮外苑再開発について都知事に手紙を送る意思。自身の葬式で流すためのプレイリストを作成しておく意思。校歌やインスタレーションなどの残された仕事を次世代のアーティストへ自ら託す意思。『12』をリリースする意思。何が起こっても教授は教授だったのだ。その教授の意思を受け取り続けることは、自由であることを教わり続けることでもある。だから、とにかく楽しみだ。
なんだか、5,000字も書いておきながら、まだ全然書けてない気がする。教授の活動について言及するには、どれだけ書いても、何冊読んでも、何回聴いても、掴みきれない気がする。ほとんど後追いでしかない自分ですらこうなのだから。やはり透明なのかもしれない。言われてみれば、『12』ほど透明な音楽も他にないかもしれない。