SNS、と言ってもTwitterやBlueskyでのことを思い出して言っているだけなのだが。いつもTLに居て、一日の何処かでは必ずアイコンを見かけて、たまに数日見ない時はあってもまた再び帰ってきて前のように呟いてくれる人たち。いいねを送ったり、送ってもらったりしながら、ほとんど直接言葉を交わすことはなくても、毎日を並走していることを当然のように感じていた、人としては見た目も名前も何も知らないはずなのに、他人というにはあまりにも知りすぎたような人たち。居ることがまず嬉しくて、それぞれが勝手なタイミングで勝手なことを呟いているだけなのに、ふと時間と意識がシンクロする瞬間を感じられるような、インターネットの向こう側なのに突然息遣いが聞こえてくる距離感に思えることもあって、それがむずかゆくも楽しい人たち。
だけど、そんな人達も突然、SNSから消えてしまうことがある。多くは、何かしら思うところがあって、アカウントを削除してしまう、削除まではせずともある日を最後に更新が止まってしまう。幸いまだ親しくしていた人とのネット上での死別というのは殆ど経験していないが、もし死別があったとしたら、それはとても悲しいが、ある意味はっきりとしたお別れでもある。ここで今想像している人々は、どうなってしまったのか行方も分からないような人たちだ。
そのSNSの場を離れる時、最後にお別れを言ってくれる人には、別れを惜しむメッセージを送ることも出来るし、心の整理もつくところがある。しかしそれはむしろ少数派で、突如パタッと更新が止まる、突然アカウントが消えるというパターンのほうが、思いあたる人たちの傾向として多い。またそういう離れ方をする人たちは、傾向として、それまではツイ廃と言えるような、つぶやき過剰指向、呟かずにはいられないようなタイプが多い印象がある。常にTLに居るし、常にTLを観察していて、あらゆることに反応できてしまうような、SNS過剰適応体質。それが生活に支障を来すと判断をして、バサッと切り捨てたのかもしれない。他にやりたいことが出来たからそっちに集中するためかもしれない。マシンガンつぶやきタイプであることで、TL上で目立ってしまうので、結果として目をつけられやすく、イヤな思いをすることが増えてしまったのかもしれない。よく、そのアカウントが無くなる前に、多少メンタル的に不調そうなつぶやきが見られることもある。その時に少し心配して(心配することしかできない、いいねも付けるべきか迷ううちに)、そういえば最近見ないなと検索してみると、居なくなっていたなどということ。
SNSを辞めることで、心の安定を取り戻せるならば、それ以上の選択はない。それは分かっているし、SNSとは心を乱してまでやるようなものではないのだが、個人個人が自由に判断して扱えばいいのと同様、その人が居なくなって寂しく思ったり、どうしているだろうかとぼんやり思い出し続けることも、また自由意志の結果の一つとして生まれる。関わった(近くに感じた)人の記憶から一切を削除することはできない。それがSNSという、人間が一生のうちリアルで知り合う人たちの数を超えた、不特定多数と繋がることが可能な世界の、面白さであり切なさであるなあと思う。
自分は、何事も辞めることが下手な人間なので、SNSのアカウントをキッパリ削除するということはまずしたことがない。もちろん投稿せず放置している状態というのは往々にしてあるが、もうサービスとして影が薄くなったもの(たとえばmixiとか…)を除けば、やっぱりROM専としても見続けてしまうし、誰かの投稿にリアクションをしたりもする。もっと他のことに取り組みたいと思うことはあっても、SNSを断ち切るというハッキリとしたアクションに移すことはできない。アカウントを削除してログが消失することにも抵抗を感じる。つぶやきはどんな些細なものでも自分にとっての記録のように思っているところがあり、インターネットに一度放ったものは消したくない、たとえどんなに恥ずかしいものでも、という思いが強い(レンタルサーバーでやっていたテキストサイトはもう消えてしまったが…PCの中には残っている)。だから、自らの選択と集中のために、SNSを捨てるというその勇気と決断を、どこか嫉妬するような気持ちで見送っているところもあるかもしれない。
僕はそんなSNS上で積極的にコミュニケーションを取っている方ではないので(嫌なわけではない!受け身なだけです…)、どんなに長いフォロー・フォロワー関係でも、直接やり取りすることは少ないと思う。それでも、突如居なくなってしまうと、もっとやり取りをしておけばよかったかと思うこともある。存在を認知した人には、元気でいてほしい。どこかで復活を宣言でもしてくれない限り、もうこの画面の中で、人生の中で、ふたたび出会うことはないのだろう。あの人もあの人も居なくなってしまった。だから、息災であることを祈るしかない。これは、一方的に消えてしまった人たちへの、一方的な祈りである。