SNSアイコン論、そして悪夢へ・・・

はいファイ
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2月が来週で終わるっていう悪い冗談とか、20度超えの小春日和のあとに最高気温4度の雪の予報が出たりとか、ちょっと怒涛の展開とスピード感がすごすぎて、映画なら最高のエンタメになりそうな謳い文句だけど、現実の人間はエンタメの中に放り込まれたら生きた心地がしない。三連休が2回も入ってきたりと緩急の付け方もなかなかイキっている。仕事はすべてギリギリ。ギリギリじゃないと観客もドキドキしないしね。観客って、この日記の購読者?

SNSアイコンをいじってた

そんな忙しない日々の中で、家に帰ってからの癒やしの時間として、なぜかSNSの、主にBlueskyで使うためのアイコンをいじっていた。そういうことって、思いついてしまうとやらずにはいられない。

アイコンなんていじりたかったらいじればいいし、気分で変えたり適当でいいじゃないか、といえばそれも間違いではないのだろうけど、一方で、アイコンこそインターネット上の顔であり、実はタイムライン上では名前以上にアイコンでその人を判断しているという人も多いため、安易に何度も変えたりしないほうがいいという風潮もある。特にTwitterからBlueskyなどの別SNSへ移行する人が多い時期など、そこで同じ人だと判断しやすくするためにも、同じアイコンでアカウントを作成してほしい…なんて言っている人もいる。そこまで他人の言うことに従う義理もないけど。アイコンは顔といえばそう、本当の顔を出している人であろうと、イラストだろうと風景写真だろうと、猫だろうとアニメだろうと無地であろうと文字であろうと、やはりその図像によって個人のアイデンティティの主張になっている。自分がその絵や写真が好きだから、という以上に、SNSという人と人がつながる場所だからこそ、「他人に自分をどう見てほしいか」という意識が如実に現れる場所になっている。だから、ある意味とても恥ずかしいものなのだ。恥ずかしいが、何かは選ばなくてはならない。何も選ばないという選択さえもまた、一つの自意識のプレゼンになってしまうのだ。

そんなアイコンだからこそ、やはり自分にしっくりくる、長く使っていても違和感のない、そして他者の視線を通してそのアイコンを見ても、自身の実存感(あるいは理想像)とのズレが小さいもの、を選びたくなる。多くの人はそこまで深く考えずに選んでいるのかもしれないが、つまりは「服」と同じようなものなのだと思う。

さっき「顔」と言っていたのに、次は「服」と言い出した。でも服のほうが実態としては近いと思う。顔は、変えたくても簡単には変えられない。服なら、着替えるだけで大きく印象を変えることも、冒険してみることもできるし、「どう見られたいか」という意識の働き方も近いところがある。無頓着である人は、その「無頓着さ」まで表れてしまうという点からも。

そんなわけで、今の気分に合わせてアイコンを調整して、自分の感じているものに画面上で少しずつ近づけていく作業というのが癒しとなる。ただ、これだけ書いておきながら、今回のこの癒しの作業はほとんど自分だけのものというか、まず気づかれない程度のマイナーチェンジしかしていない。気づかれないけど、自分の中ではより今の自分らしくなったという満足感。この感じ何かに似てるなと思ったら、その場合は服というより「眼鏡」を変えた時かもしれないと気付いた。また顔に戻ってきた。

自分は風呂に入るときと寝るとき以外は四六時中眼鏡を掛けているのだが、たまに無性に眼鏡を変えたくなる時が来る。数本持って毎日替えればいい、それこそ服と同じように、と思われるかもしれないが、僕の場合はかなり度数が高く、そうなるとたとえ同じ度数で眼鏡をいくつか作ったとしても、フレームの違いによりレンズの曲がり方、つまり視界の歪み方が大きく変わったりする。新しい眼鏡に変えた時も新しいレンズの歪みに最初は違和感が大きく、数日かけて脳が慣れていく。そんなことになるので、毎日眼鏡を変えるというのは脳にとって負担が大きくなってしまうので難しいのだ。

なので、毎日同じ眼鏡をかけた「その顔」として、鏡を見て、日々付き合っているのだが、時々何かのきっかけで、今の気分とのズレを感じたり、もっと理想的な眼鏡を見つけたりすると、突然顔が古臭いものに見え始め、いてもたってもいられなくなる。しかしその古臭さを感じる場所というのが、実はとても細部、たとえば眼鏡上部のカーブのかかり方とか、ブリッジ部分の太さとか、ミリ単位のサイズ感とか、色合いとか、質感とか、ちょっとした意匠とか、そのほとんどが、他人から見たら変えても全然分からないような部分だったりする。それでも、鏡を見る度にその細部が気になりまくる。もっとしっくりくる自分の顔を求めたくなる。

アイコンを微調整しているとき、まさにこの感覚だったということに気付いた。鏡と同じように毎日見る、自分のアイコン。他人からはまず分からないような軽微なアップデート。変えることが出来たときの、ベースは変わらないのによりしっくりくる輪郭を得られたというような満足感。「顔」であり「服飾」でもあるのが眼鏡なのだな、という、強い相似形を見出すことができた。

新しくしたもので、できるだけ長く付き合っていきたい、と、アイコンを変えた時も、眼鏡を変えた時も思っている。でも、「飽き」を感じなくなってそれこそ無頓着になってしまったら、それはそれで良くないのかもしれない。

とかなんとか書いてたら眼鏡の夢を見ました・・・

旅先で眼鏡が壊れる夢。悪夢だ。仕方ないので近くにあったデパートの中の眼鏡屋に行くが、広々としているのに、まるで美容室のような椅子と鏡が何台も置いてあり、それなのにフレームの種類は小さなテーブル1台の上に数える程度しかない。緊急を要しているとはいえ、さすがにフレームはもうちょっと選びたいのだが…と言うと、こだわりが強そうな店員が「一番良いものしか置いてないので。これが一番良いので」と言って憚らない。度数のチェックをしたり、やっぱりプラスチックフレームはダメですよなどと蘊蓄をたくさん聞かされた挙げ句、結局フレームを選ばせてもらうこともできず後日来てくださいと店を追い出された。という実に居心地の悪い夢。

起きたとき、眼鏡が無事であることに大変うれしくなりました。アイコンを強制的に変えられるほど不愉快なこともないですからね!