昨日は平日なのに仕事が休みとなったので、濱口竜介監督『悪は存在しない』を観に行ってきた。前作『ドライブ・マイ・カー』にはいたく感動したのもあるし、そこから引き続き、もともと好きな音楽家の石橋英子とのタッグなのもあって、観たい気持ちはしっかり盛り上がっていた。(同撮影素材の姉妹作とも言える?音楽主体のサイレント映画『GIFT』はすっかりチェックできておらず見逃してしまった、なんとか追体験できる方法はないものか)
ドライブ・マイ・カーを観た時から、この方の映画は、とにかく美しく風景を切り取るし、余韻や音楽や咀嚼を含めた必要な分の尺を描きとろうとするし、それでいてとても理知的に、緻密に計算して映画を作っているような印象を抱いていた。その画作りの選択、そして音楽の選択からして、個人的にもとても好みの合う監督なのではと今更ながら思い始めていた。と同時に、最新作のこちらはそのタイトルや静止画を垣間見る時点で、よりアートフィルムに近づいた作品になるのかなという予感はあった。
予想通りこれは、飲み込みやすい映画ではなかった。いや、話の筋としては分かりやすさしかないのだが、それ以上にこれは紛れもなく"映画"であることの喜び、という印象だった。お前は映画の何を知ってるんだ、と言われると苦しいのだが。少なくとも、観ている最中のスクリーンから伝わってくる長野の雄大な自然の空気、ドキュメンタリーライクな会話、その緊張感と静けさ、そして最後の驚きも、この映画の中でしか得られないというか、この映画を見ている最中にだけ輝くようなもので、その貴重な時間の只中に今自分は居るのだという質感のようなものがあった。もちろんあらゆる映画はそうだとも言えるのだが、映画を観終わって渋谷の街に出た途端、今観たことのすべてを思い出せるし、すべてをなんてことないものだったと振り返って解釈することもできるが、あの映画時間の中では全てがある種の別の意味を持って連なって感じられたというか。あの質感だけはもうどこにもないのだという寂寥感がやってきた。それは映画内でしか起こらないマジックと言えるもののような気がした。
会話劇は、それぞれのシーンごとにとても練られていてリアル。特に東京からやってきた2人の車中での会話などは、まるでデジャヴか何かを見ているような「近さ」でゾクッとした。そういえばドライブ・マイ・カーでも車中の会話が一つの重要なポイントだった。しかしあの時の会話と比べると、今回の方はとても軽薄だが。その軽薄さが、東京の空気との物理的・心理的距離のメリハリを描き出す。映画全体の展開としても、コロナ禍がきっかけとも言えるような、様々なファクターの連鎖により、悪は存在しない、のだがこうなってしまう…と言うような状況に転がっていく。しかし、巧と花という親子の存在が、どことなく不穏なあやうさを漂わせる。迷いなく前を見据えながら、まるで目の前の人を何も見ていないような。親密な2人であるはずなのに、ほのぼのとしたものとは違う何かがそこにはある。花はまるで、この森、この自然と繋がってしまっている。巧は、何も語られないが、何かしらの喪失を常に感じさせるような佇まいで。その2人の周囲では、とてもありがちな会話が、しかし彼らの視点からするとまるですべて滑稽なものに置き換わっていくような会話が、上辺を通り過ぎていく。彼らは、この土地に根差して何を見つめているのか。皆、おそらくいい人達ではあるはずなのだが・・・。
石橋英子の音楽は、唐突に終わる。その弦楽を主体とした、穏やかなのに、こちらもまたどこか不穏さを漂わせる旋律は、周りの音をかき消すように一番盛り上がったところで突如切断される。あらゆることは唐突に起きる、唐突に消える、とでも言いたげに。映像としても唐突にカットが切り替わるまでは、タルコフスキー映画を彷彿とさせるような、寒々しくも美しい長回しショットが続く。雄大なる流れと切断。それは、これが"水"の映画であることと関係しているのかもしれない。そんなにたくさん水のシーンがあるわけではないが、意味として、ゆっくりとしたパンや、車載カメラが印象的な映像として、常に流れているのかもしれない。「水は低きに流れる」。人もまた流れ、流され、そして、森に棲む動物達の流れもまた切断されようとしていたわけだが。。
問題のラストシーンの唐突さもまた、マジックとしか言いようがない。そこでは、繋がってはいけないものが繋がってしまったというか、これまでずっと底で流れていた不穏な水が、唐突にこの瞬間に露わになる。この2時間で流れ着いた先に表れた異界。そこで暴かれたのは条理ではない何か。そこに至るまでの映画という大きな一つの流れ。確かにそこで起きたことはインパクトを残すのだが、それ以上に、あのラストシーンの映像の編集が強く印象に残っている。そこにもこの映画の唐突さの論理が凝縮される。繋がってはいけないものを繋ぐという、映画の魔術そのものと絡み合いながら。
(ただ…やはりあまりに映画が理知的に作られているがために、その唐突さの演出や、それこそこの考えさせられる映画タイトル自体からして、どうしても「狙い」が見えすぎてしまいがちなものを、感じなくはない。狙いを嗅ぎ取ってしまうと、どこか遠目に見てマジックが薄れてしまう面もある。批評的な問いかけ、に移行してしまうというか。今でも十分美しくてかっこいい映像なのは間違いないのだが、映画を作るのがうますぎるがゆえに詩情が分からなくなってしまう印象を少し持ってしまうのは、さすがにわがままが過ぎるというやつだろうか)
ところでさらに唐突な余談だが、映画内ではカメラが様々な視点になる。走る車から去りゆく景色を見つめ続ける視点、人物の主観視点、丘わさびの視点。人物視点の時には、手ブレの激しい画面になったりする。この様々な視点に乗り移っていくような映像構成が、前日に見たNewJeansの新曲MVとオーバーラップしてしまった。何の話だ。いや、これも水は低きに流れるの一例かもしれない。低いというのは低俗ということではない。下には上よりも多くの人間が住んでいて、人の少ない上で試されていたことがやがて広まって多くの人に影響を与える。映像表現においてもまた同じであるということだ。きっと。あ、このラストシーンも水だ(繋げてはいけないものを繋げている)。