友人宅で思い出補正/物語で心のバッファを

はいファイ
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公開:2023/12/19

土曜日は、横浜の地元の方まで行き、友人宅へ。中学の頃からの付き合いである。だいたい朝までゲームをする。中学、高校の頃は僕の実家がゲーム仲間の溜まり場みたいになっていた。クソ狭い部屋で足がぶつかるような状態でスマブラをする。まさに昭和末期生まれのリアル少年時代という感じの風景。今はそれが友人のワンルーム部屋に変わって、集まる機会の間が昔より伸びただけ。まさかこんな関係が今でも続くことになるとは思わなかった。僕が結婚している以外は、それぞれのライフステージがたいして変動していないというのもあるけど。

このままそれぞれの生活スタイルが変わらないと仮定して、朝まで飲みながら遊ぶようなことが、まず体力的にいつまで出来るのかという問題のほうが先にやってくる気がする。みんな基本的に運動が嫌いなオタク気質なので。変わらないことをしていると、若いまま変わってないような錯覚をする。しかし年齢は誰しも平等に残酷に重ねている。まぁ別に問題も何も、遊ぶ時間を短くするなりすればいいだけなんだが。

若い頃にみんなで遊んで楽しかった、その記憶は思い出補正されて、それを再演しようとしてしまう。今回、SwitchでNintendo64のソフトを遊んでみるという試みをしたが(007ゴールデンアイが遊べるようになったので!)、こと思い出補正の強さを実感せざるを得なかった。やはり、今のゲームのほうがきれいで楽しい。例えば、親が子供に昔の遊びの話をする時、「子供の頃はこれしかなかった」と言ってメンコやプラモデルやラジオ…というゲーム以前の遊びの話を言って聞かせることがあるとする。それはそれで満足していたのだ。N64のソフトをやってまさか同じことを感じるとは思わなかった。当時はこれで満足していたのだ、これしかなかったから!

で、だいたいこの遊びの日の次の日曜はダラダラ過ごす(ことしかできない)のだが。突然、無性にSF小説が読みたくなって、積んだままにしていた、そして何故か今まで読んでなかった『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み始めている。サイバーパンク世界は好物だし、ブレードランナーも好きなのに(2049はマジで素晴らしかった…)。

小説、というか、普段「物語」自体をそこまで欲求しないので、そのせいで本もアニメや映画も、見たいと言いつつ見ない、という状態のまま積んでしまいがち。でも、そうしているとある日突然、心が潤いを求めるというか、全く別の人格にロールプレイングするような体験に渇望するというか、なんかちょっと心に新しい透明感のある領域を作りたくなる、という時が来る。そうやって何か新しい物語世界に足を踏み入れると、そのまましばらく色んな物語をハシゴしていく時期が来る。

映画は、2時間なら2時間、非日常への侵入から解放までを体験できるが、本や1クール分以上のアニメの場合、数日に渡ってその物語世界領域を心に確保したまま生活する。その状態が心身の健康によいという感じがある。運動も、しばらくやならい状態から何かしらを再開すると、やっぱり元気になるなという実感があるが、フィクションを携えながら生活することも似たようなところがある。運動が体力のバッファならば、物語は精神のバッファか。バックアップ、という感覚に近い安心感もある。何のバックアップにもならないが。

というわけで、ゲームばかりすることや、過去の思い出に浸ってばかりいることは、せっかくの限られたリソースを消費していくばかりであり。もっと自分とは別の世界と繋がりながら、まるでパラレルワールドとともに生きることで、宇宙の豊かさまで羽を伸ばしながら生きていきましょう、そういう想像力の源泉にはSF小説が一番ですね(??)