スイカゲームは泡のように・・・

はいファイ
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昨日は、電車で1時間と少々行ったところにある実家まで行く日であった。菓子を食べ、酒を飲み、夕飯を食べて帰る。気まぐれにSwitchを持っていったのだが(母がピクミン好き(主にビジュアル面で)であり、ピクミン1はやったこともあったので、最新版の動いてるのを見せようかと)、そこで実感できたことは、やはりスイカゲームはすごい。

スイカゲーム、誰でも理解できるし、すぐ遊べるし、見てる側もなにげに盛り上がる。最初触り始めは簡単なような気がしても、中盤からだんだん詰まってくると、「そういうことか」と分かると同時に「これは面白いな」という実感がすぐ訪れる。もちろんそこからハマる人とすぐ飽きる人とは分かれていくのだが、このシンプルな間口の広さは発明だなとなった。

そして話はまったく変わる。

「陰謀論にハマる親」「ネトウヨ化する親」というのは、わりと親世代が60~70代くらいになる人たちの間では身近な「あるある」だったりするのだが、果たしてこれをどうやって防げようか、となると頭が痛い問題でもある。誰でもスマホを持ちインターネットに繋がり、YouTubeやSNSに簡単に触れられるようになった現代、たとえばちょっとでも「ワクチン 不安」とかで検索したが最後、そういった医療やマスコミ、国の施策に対しての不信を煽る内容、さらにこれが報道されない「真実」だといった内容のものが、隠された真実にしてはだいぶあっさりと出てくる。それらを真剣に見てしまうと、SNSなどのプラットフォーム側は「そういう内容に興味ある人」としてアルゴリズムを調整し、次から次へとそういった界隈で好まれている話題、好まれる方向性の書き込みなどをチョイスして提供してくれる。おかげさまで、画面上には「みんなこう言ってる」という環境が出来上がり、頭の中には「真実を知った国民 vs 真実を隠したい国や権力者」というフィルターバブル・モデルができあがってしまう。

『ネット右翼になった父』という新書を読んだときも、どうすればそうなるのを止められた、止めようがないじゃないか、家族にできるのは「どう折り合いをつけるか」だけなんだなというのが残酷なまでに分かってしまう。つまり、「そういうのから抜け出してほしい」を実現することは出来ず、距離を取る、そういう話題に触れない、所詮他人なのだと諦める、「全部インターネットのせいだ」と、家族ではなくインターネットに責任を押し付けることでかろうじて人格的拒否感に至らないようにする・・・など。

これが四六時中一緒にいるような家族だったらしんどいだろう。うちの場合、誰がどう、とはここでは書かないが、そんな頻繁に会うわけでもなく、そんな話題が上ることも少ないので、喫緊に「折り合い」を求められているわけではない。それでも、どこかこう「諦めなくてはいけないのか…」という心のモヤりは、晴れずにいる。晴れないよなあ、ということを、こうして日記にしたためてガス抜きをしたりする。

スイカゲームのように、モヤりをうまく対処することも消すことも出来ないまま、いつか詰まってしまうのだろうか。スイカを2つ作って消すなんて、なかなか常人にはできないことだよ。