推しの子という罠にはまって

はいファイ
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公開:2024/6/26

すっかり日記が止まっていた!止まっている間に色々あったような気がするし、別にそうでもなかったような気もする。まぁもともと書く習慣があったわけでもなく、しずかなインターネットというサービスきっかけで始めただけで、いつもやりたいことでみっちり(かつ散乱)している頭の中に、この日記を書くというスペースまで本当はなかったのだ。だからいつ止まってもおかしくないとは思っていたが、案外続いている。止まっていた間もずっと書きたいな、今日は書けるかなという気持ちはチラチラ覗いていたし、やはり何かを書き残すということが根本的には好きなのだろう。

いや、まったく書いていなかったわけではなかった、というか、下書きにはヨコハマトリエンナーレに行ったことを書いて、ウーンと唸って下書きのまま放置していたのだが、そうなるとしずかなインターネットを開くたびに、あれの続きなんか書けるかな…という重い気持ちと直面してしまい、一旦忘れて普通の日記を書く、ということもなんか出来なくなってしまっていた。ヨクナイネ。書くことに変に責任感を感じて、書けることだけ適当に書けばいいのに、書き始めたことを先に終わらせなきゃいけないような思い込みに縛られて。仕事かっていう。

というわけで、直近、めちゃくちゃ気軽に書けるものができたので、書けない記事のことは忘れて気軽に日記を書いています。『推しの子』を最新話まで一気に読んでしまいました(ジャンプ+アプリなら初回無料で全て読める)。

漫画は(アニメもだけど)全然積極的に読むということをしておらず、話題になっているものから、人から勧められたりする等のきっかけでふと、気まぐれに読み始めるぐらいなのだが、読み始めると完結まで途中で止めるというのをしたくない性格でもあって。あれ。こんなところにも謎の責任感が垣間見られますね。その性分が分かっているからこそ、逆に新しい物語を開き始めるということに躊躇がある。特にこの推しの子のような、初めから全体のプロットが決まっていてそこら中に伏線を張られているようなタイプのものは、一度その張られた罠に引っかかったが最後、その罠の根本まで掘り進めてどういう仕組みになっているのか、この目で確認しないと気が済まなくなってくる。この作品については原作漫画よりも先にアニメを見ていたのだが、アニメの第一話でいきなり90分という尺でカマしてきたこの推しの子は、その罠にかかった瞬間にもうそこから逃れられないことは分かっていた。気軽に1話見始めるつもりでいきなり映画尺を見せつけるというその挑発的計画は、それ自体が遠大なプロットでもあり罠だった。誰もが目を奪われてく完璧で究極の作品にするための賭けであり、条件だったのだなと、今なら思う。

というわけで、原作を読み始めたが最後すっかり目を奪われて、おもしれ~~~とiPadのページをめくる手が止まらないまま、3日で原作更新リアタイ勢に追いついてしまった。

推し。推しがいれば世界が輝く、という感覚はやはり体感的に今でも腑に落ちないけど(一生分かることはなさそう)、こういったフィクション世界にどっぷり浸かって、次の話を楽しみにしている状態というのは、たしかに未来に希望を感じる心境にもなる。だが同時に、ふとその世界から目を離すと、ものが散らばって収拾のつかなくなった部屋、無味乾燥な仕事や、毎日何も展開しない日々がそこにある。だからこそフィクションがあるといえばそうなのだが、フィクションがエンターテイメントとして輝けば輝くほど、やはりこのギャップはなかなかしんどいものがある。このギャップから逃げ続けるだけの体力がある人は、常に何らかのフィクションに浸ることをやめないでいられるのだろうが、自分はどちらかというとこのギャップに都度敏感に反応してしまうところがあり、もっと別のしかたで、この現実との折り合いをつけたいと思っているところがあるので、フィクションは程々の摂取にとどめているところがある。(たとえばディズニーガチ勢とかを想像してしまうのだが、日常的に非日常エンタメとの往復を行っていてそのギャップに慣れてる人はまず基礎的な体力があるなと思ってしまう)

しかしこの推しの子は、大変ファンタジーな設定がいきなり導入されるくせに、それと対になるように大変リアルな業界内部の話が綴られていく。舞台は芸能界でもあるので、その業界特有の風土や慣習、構造といったものを令和の現在にならってかなりリアルに描写している(と思う)。そういう業界ということは、アイドル周りのみならずそこに関わるクリエイターの人々の仕事論、創作論や葛藤なども、まさしくこの漫画の作者本人達の声なども混ぜ込まれてると思われるような見方まで、実に俯瞰的に配置することに成功している(はず)。様々なプロのクリエイティブ論に、漫画というプロの仕事を通してチャレンジしている。そして、だからこそさらに辛いものがある。自分はこの推しの子世界に転生してしまったとしても、その葛藤に至ることすらない、端役にすらなれないということが。別にギョーカイ人でもなんでもないが、何かの勘違いでこういった映像論、創作論からも目を離せない人間になってしまった。目が離せないのに知れば知るほど辛い。そんなところに居たくないのに、もしそこに自分が居たらという想像からも離れられない。創作の中で創作論をやられるとザワザワするのだ。例えば『映像研には手を出すな!』なんて、見ると本当につらいのに、見たくてしょうがない。そういう人間に対しての作品だとはっきり分かる。つまりこれもまた罠なのだ。痛いのに、美味しい、甘い罠。この罠はどうなってるんだと、最後まで暴かないと気が済まないような罠。結局全てはフィクションという嘘だと分かってるのに、でもどこかで真実だと思いたい、そしてその真実に、もしそこに自分も居たらと想像させる輝きと刺激。アイドル。

まさか、こんな一斉を風靡した大ヒットタイトルでこんな気持ちになるとは思わなかったが、いやむしろ、これが多くの人の胸に刺さるのは、世の中がそれだけみんな創作をする時代になったからこそなのかもしれない。人々の、エンタメに浸りたいという欲望、何かを創りたいという欲望、ファンタジーとリアルの間で溺れたいという欲望を、清々しいほど整然と配置して見せた罠、なのかもしれない。

気軽な日記とか行っておきながら、こういう文章を作ろうとしてしまうのが、本当に自縛しているしルサンチマンをしているなと思う。どこまで行っても罠だらけだ。

漫画の最終章と、アニメの第二期、楽しみにリアタイしていきたいと思います。推しの子、今の推しです。(有馬かなには幸せになってほしい)(という読者の気持ち自体が罠に掛かっているのだ…)(エンターテイメントはそれだけで罪深い…)